午後から実家で父の四十九日法要。この間何度か読経をしているので抑揚などにも慣れてきた。何事も経験である。また、葬儀後も父の死を知った遠方の方などから昔の父の思い出を知らせるお手紙などをいただくなどしている。父の人柄はわかっていたつもりだが、若い人や困った人の面倒をよく見ていたことなど、死してなお私にその姿勢を真似なければと思わせることも多い。その後、夜にかけて親族の皆さんとお斉。

そう言えば、父の葬儀を行ったのが先月14日。国会では党首討論が行われ、定数削減を前提とした衆院解散が野田総理から提起された日でもあった。その後、16日には本当に解散されて総選挙となり、地元では選対本部長に指名された。

一方、兵庫県議会は総選挙日程に変更なく今月4日開会し、同7日には年度当初から決っていた本会議の代表質問のバッターとして私が登壇。その3日後には妹の出産もあった。衆院選公示後は、楽観視するような雰囲気がまだ周囲を支配する中で、実際はこの間の政権運営に対する厳しい評価はこの播磨にも押し寄せていた。

投票日、深夜になってようやく出た当選確実の報に、集まった支持者の皆さんたちと万歳。得票は前回から大きく減らしたが、結果としては個人的に目標とした絶対値、また描いた「結果」は出すことができた。私の万歳等の様子は、NHKテレビで候補者の後ろに映っていたようだ。目をつぶっていたように映っていたため、多くの方から「寝ていたんじゃないか」「疲れ切っていたな」などとといった声も多く寄せられた。無論寝ていたわけではなく、今振り返っても何を考えていたのかわからない。いずれにしろ厳しい選挙だった。選挙戦が厳しさを増し、その局面打開のために多くの方に無理をお願いした。その反響は時に反発となって私にも寄せられた。厳しいとはそういうことだった。

他の選挙区では多くの党所属議員が落選した。負けた理由など今更総括をする必要もないほど明白であるが、こうしたところで披瀝すべき内容でもない。何より嘆かなければならないのは有為の人材を候補者として確保する地道な取り組みが道半ばの中で総崩れとなったことである。十年以上かけてこつこつと並べてきたドミノが、途中でほとんどが倒れてしまったようなもの。再度起こして立てる余力まで奪われるほど全国で拠点となる国会議員を失ってしまった。これは信用と組織、資金の面を含めて簡単に回復させられることではない。残念でならないが、その原因はく一部不可抗力であるものの多くは自業自得である。

再び二大政党制を目指すことができるかできないか。現在の小選挙区制のもとでは第三極が強くなれば第二、第三極で票が分かれるだけで、現在の与党が第一党を譲ることはないだろう。現在の与党の票は過去から今回の結果を見ても大きく崩れない固い票である(低投票率ならなお強い)。第三勢力が第二勢力の力を奪う構図、参院選まではこの状況が続くのだろうが、それ以降もそのまま続けるのであれば、いつまでも続くということになる。

選挙制度にその問題点を指摘する声もあるが、わざわざ第三局に有利な3人の中選挙区制を導入するだろうか。勝った側が自分たちに不利な制度に変えることはないのは自明。参院選も実は一人区という小選挙区が多い。第二勢力と第三勢力が競合すれば結果は今回と同じということになる。この点では全く明るい展望がない。みんなの党と維新の競合が言われたが、投票の実態は民主党とも競合しているということだ。