こんばんは。またはこんにちは。もしくはおはようございます。







何だかお久しぶりです。私は生きてます。







こちらは前回のブログ。





推し、と果たして言ってよいものやら。世界も私生活も大変で、もはやたける氏に言及どころか意識にも上らない毎日です。無くても一切困らない存在になってしまった。



うーん、もう『元推し』と言わせてください。ごめんね。は◯らく細胞とか来たら秒で滾るとは思うけども(とか書いてたらペケッターのアカウントができたみたい)(早く公式発表おくれ)。



それはそれとして動画↑は観ました。いつの話だ。痩せた。痩せてる。知ってたけど改めてお痩せになりましたね。BECKの頃を彷彿とさせる痩せっぷりですよ。だいじょぶ?食べてる?忙しい?お疲れ様。←息子へのそれ。



忙しいのか役作りなのか両方なのかは分かりませんが、何にせよ早く無事にクランクアップしますように。作品楽しみにしております。






さて本日は読書の記録。私今年に入り、ペケッターの相互さんがFacebookにて管理されている非公開の読書グループ(長主語)に参加させていただいてます。



読了してなくとも、例えば今から読もうかなと思っている作品、またはネットで見かけた気になる書評などなど。自由に貼って感想を添える。投稿せず眺めるだけも良しのフリーダムな場。



不肖私もそこにちまちま読んだ本の感想上げています。なかなか見返さないのでせっかくだからこちらにも記しておこうと思う。投稿をそのまま貼るのもアレなのでちまちま補足しつつ。







一冊目はこちら!




 

 

 

『ガザとは何か〜パレスチナを知るための緊急講義』岡真理著



昨年10/7、ハマスの攻撃に端を発した…と思われがちなパレスチナ問題ですが、それは大きな間違いであることが詳細に分かりやすく書かれています。パレスチナやイスラエル、何となく関心はあるけれどよく分からない…という方には最良の入門書の一冊。



つい先日もガザ南部のラファ(イスラエルがガザ市民に「ここは安全。攻撃しない」と避難させた場所)がイスラエルに爆撃され、黒焦げの幼児や重度の火傷を負った乳児の画像を見ました。



瓦礫に押し潰されたたくさんの足。飢えて亡くなった生後7ヶ月の赤ちゃんの、骨格標本にかろうじて皮が張り付いている状態の裸の亡骸。ガザのそんな画像や動画が、私のタイムラインを埋めています。




読み応え、という言葉は本当は使いたくない。そういう種類の書籍ではない。しかしながらどうか一人でも多くの方に読んでもらいたい一冊です。切に。





次!








 

 

『ある奴隷少女に起こった出来事』ハリエット·アン·ジェイコブス著



なぜ娘がこれを手に取ったかは定かではありませんが、表紙の美しさに反比例するタイトルの強烈さ、裏表紙に書かれたあらすじの壮絶さに心惹かれたのかなと想像します。




表紙と言えば、黒人奴隷にしてはイラストの少女の肌の色がずいぶんホワイトウォッシュされてない?と疑念を持ったんですが。よく読むと主人公の出自に色んな人種が混じっていることが分かり、外見もステレオタイプな黒人奴隷ではなかったらしきことが伺えました。




何はともあれ瞬く間に引き込まれた。歴史の大海に沈んでいたものが引き上げられたという意味でも、その内容の凄まじさをとっても、奇跡的と言っていい知性と不屈の自伝です。



「この本を読む前と読んだ後では人生が変わった」そんな本との出会いがある人は幸せです。私にとってこれはそんな一冊。ぜひお手に取っていただけたら。






次!








正に正に、こんな時代だからこそ子どもたちともシェアしたい一冊。小さな民草である私たちは、大きな権力や世界の流れに比べあまりに弱い存在。でも無力じゃない。微力だけど、無力じゃない。



投票やデモ、ディベートや連帯、学びや体験やコミュニケーションなど個人個人の小さなアクションの連なりもまた、世界を動かし世界を変える小さくも大きな歩み。残念ながら世界は理不尽で不平等で愚かなので、悪い変化はあまりに早く良い変化には不断の努力を要する。



だからこそ小さなひとりひとりが、その人しか持たない唯一のまなざしで世界を見つめ、違うまなざしを持つ誰かと手を繋ぎ合うこと。そのための方法はこんなにあって、先人たちはこんなことをしてきたよ。今を生きる私たちも、色んなことができるんだよ。そんな一冊です。大人も子どももぜひ。





次!




 

 

『三つの願い パレスチナとイスラエルの子どもたち』デボラ·エリス著/もりうち すみこ訳




これも強烈な一冊。20年前、パレスチナとイスラエル双方の子どもたちにそれぞれインタビューしたもの。



以下、本文。イスラエルの子どもとパレスチナの子ども、それぞれの見えているものが全く別世界であることがよく分かる。お互いがお互いを理解できず、恐れ、憎む。






今は彼らは成人している。兵役についたイスラエルの子もいるだろう。瓦礫の下敷きとなったパレスチナの子もいるかもしれない。



イスラエル·パレスチナ双方の文章が掲載されると聞いて我が子のインタビューを拒否した親もいるという。大人が始めた侵略の歴史は子どもの子ども時代を奪い、命と尊厳を奪い続けて、今も、この瞬間も蹂躙し続けている。



私がこのブログを書き始めてからの数日で、パレスチナでは一体何人の命が奪われただろうと思う。食事をすれば、骨と皮だけになったあの子を思い。用を足せばガザでは700人に一つしかないというトイレを思う。入浴すれば、更に足りていないであろうかの地のシャワーを思う。







楽しくピクニックするその間にも。見上げる同じ空の下、踏みしめる同じ大地の上に起こること。こちらのピクニックとあちらの虐殺を分けているのは何なのか。本当に分かれているのか?いやいやそれは回り回って、もしくは直接的に地続きのこと。



生活に翻弄されていたら見落としてしまうこと。それを目の前にそっと開いてくれる本たちに感謝。






ではまた後日。お疲れ様でした。