最近若い女性の間で、歴史に興味を持ち、古戦場等を訪れる「歴女」が増えている。
日本史上有名な戦いはたくさんあるが、「天下分け目の戦い」と呼ばれた「関ヶ原の戦い」は、皆さんもご存知だろう。豊臣秀吉なき後、天下を狙う徳川家康(東軍)と、豊臣家を守ろうとする石田三成(西軍)、が関ヶ原(現在の岐阜県)で雌雄を決した戦いである。戦場での戦いそのものは1日で東軍勝利に終ったが、主人公という視点から見ると、この戦いは非常に面白いドラマである。
当時の実力者として圧倒的優位だった家康(五大老の1人)に対して、秀吉の1家臣(五奉行の1人)に過ぎなかった三成が、なぜ兵力的には互角(むしろそれ以上)の西軍を事実上指揮し、実力者家康と堂々と渡り合えたのか? 実はこれこそが、三成の類稀な知将たる証明でもある。
三成は第1に、豊臣家(具体的には秀吉の嫡子である秀頼)を家康の野望から守る、という大義名分を立てた。第2に、自分の立場が家康に劣ることを分かっていたので、毛利輝元を西軍の総大将として擁立した。第3に豊臣家に恩義を感じている武将たちを説得し、(すべてではないが)西軍の味方に付けることに成功した。彼の立場でこれだけのことをやり遂げたという点は、見事だったというほかはない。
秀吉の政策(太閤検地、刀狩り等)は、事実上三成が行ったものであり、その政策が後に徳川幕府にも引き継がれ、長い江戸幕府の政策の基礎になったとも言える。
三成のエピソードについて、ご存知の方も多いと思うが、少し紹介してみる。
秀吉が野(鷹狩り?)に出た帰りに、1軒の家に立ち寄った。その家の(秀吉は初対面の)少年は、茶を所望する秀吉に対し、まずぬるくてたっぷりの茶を出した。喉の渇きを潤すためである。秀吉が2杯目を頼んだ時、少し熱めで少し量の少ない茶を出した。そして3杯目には、熱くてほんの少しの量の茶を出した。秀吉は、初対面のこの少年の機知に感嘆し、召抱えることにした。この少年が、後の石田三成である。
秀吉の武将の大谷吉継は、その戦の腕に秀吉も一目置くほどの武将であったが、当時不治の病とされていた感染症を患っていた。秀吉家臣たちの宴席で、武将たちが回し飲みする大杯(おおさかずき)の中に、彼の顔から膿がポタリと落ちた。当時その皮膚病は膿によって伝染すると考えられていたため、吉継自身も周りの武将たちも顔面蒼白になった。だが、三成は何事も無かったかのように、平然と自分からその盃を飲み干して、吉継の窮地を救ったのである。この後、彼は三成の男気に対して信頼を深め、三成の無二の親友になっていく。そして「関ヶ原の戦い」では、日和見を決め込む西軍の武将もいた中で、死を覚悟で孤軍奮闘し、最後まで三成のために戦って、戦死するのである。
このことから見ても、三成は単なる「知将」というだけの人物ではない。
男には、敗れて死ぬことになろうと、自分の矜持(きょうじ)をかけて「戦わなければならない」ということが、人生に1度はある。
彼は家康によって処刑されることになるが、人間として、また男として、その人生を全うした。
石田三成は「関ヶ原の戦い」で敗れはしたが、間違いなく関ヶ原の「主人公」であった。










