矢野シンさんについて① | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

今日は矢野シンさんについてのお話です。もう既に50年近く前にお亡くなりになっていらっしゃいます。霊能者でした。もちろん私はお会いしたことはありません。しかし高坂が他界した後、不思議なご縁で矢野シンさんのお住まいに2度ばかり訪問させていただきました。矢野シンさんがお亡くなりになった後は矢野シンさんのご長女の青砥代矢子さんがお住まわれていました。矢野シンさんがご神業されていた部屋もまだ残っていました。

 

高坂和導は生前、神戸に行く際にはいつも泊まらせていただいていたことを思い出して私が青砥先生にご連絡をしたことからのお付き合いでした。もう青砥先生も旅立っていらっしゃいますが。この神戸の家も老朽化により2~3年ほど前に取り壊しとなりました。しかし神戸の震災の時も周囲の家々の大被害にもかかわらず、この家は壁にひびが入っただけの被害に留まったという奇跡の家でした。

 

矢野シンさんのご主人は矢野祐太郎さん、「神霊正典」を書かれた元海軍将校でした。高坂まだ20代の頃に東京の等々力に古墳調査で訪れて際に等々力不動の滝で出会った白装束を着たおじいさんから1冊の本を手渡され、この本を読んで竹内文書の研究に入りました。神聖正典の元になったのが竹内文書です。

 

神霊正典を書いた矢野祐太郎という人は元海軍将校でこの本を天皇家に献上したために1936年、不敬罪の容疑で検挙され、そのまま獄死を遂げた方です。矢野氏の死は後に獄中で毒を盛られたのではないかと噂されましたが、それを裏図けるように、彼の書いた本は全て発禁処分となりました。高坂が白装束を着たおじいさんから手渡された神霊正典は、遺族であるシンさんが戦後に復刻した希少なものでした。

 

高坂は神霊正典を読んで、竹内文書の研究を本格的に決意したのは翌週のことでした。3月21日の春分の日の休日を利用して、その本が書かれていた人類発祥の地、岐阜県の位山に調査に出かけようと計画を立てました。今のように北陸新幹線はありません。東海道新幹線に乗って岐阜まで行き、それから高山線に乗り換えようとしましたが、岐阜に着いた時には、その日に高山まで行く電車は既に終わっていました。その時、ふとそれまでに考えていなかったことが思い浮かびました。

 

「山はなくなることはない、また時間をつくって行けばいい。だが人の寿命には限りがある。それは待ってはくれない。」と。この直感を信じ、直ぐに目的地を位山から神戸に変更しました。神戸には神霊正典の著者の矢野祐太郎さんである矢野シンさんが、ご高齢ながら健在でいらっしゃったからです。もちろんその時は神霊正典を読んだということだけで、面識も紹介者もありませんでしたが、不思議と「会える」ことを確信していました。

 

結局その日は大阪まで移動し、翌朝早く電話番号を調べて、「お会いしたいのですが」と申し入れました。すると「いいですよ。すぐにいらっしゃい」とのお返事、神戸からの道順を教えてもらいお宅へ向かうことができたのです。   続く 「トンデモ発想で生きてみないか?」より