何の知識なしの幾多のワクチンが。。。③ | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

前回に続きます。帰国後、順調に私の夢がかない、また西アフリカへ。それも乾燥地帯のサハラ砂漠の公用語がフランス語の国への派遣でした。私は何の特技もなかったのですが、無経験でもそれまでの人生経験がおそらく評価されたのではないかと推測できましたが、ポリオ対策のリーダーという仕事でした。ワクチン普及の仕事でした。

 

私はもちろん医療従事者でもありませんでしたので全くポリオとは無関係の人生を送ってきました。また知識も全くなかったのです。ポリオ対策普及の隊員のリーダーという役目でした。その当時は西アフリカでポリオ患者が多くいたのだと思います。私が幼い頃には同じクラスに小児麻痺の同級生が確かにいました。最近は本当にその姿を見ることはありませんでした。

 

さすがにポリオに対する知識がない私にポリオに関しての専門分野の研究がなされていた福島医科大学へマンツーマンのレッスンを受けるために赴任前の事前研修ということで私は2002年10月16日の朝は福島駅近くのビジネスホテルに宿泊しておりました。朝起床し、シャワーを浴びていたところ、私の住むマンションの管理会社から私の携帯に電話が入ったのです。

 

私の夫である高坂和導が倒れ、病院に運ばれたので、一刻も早く病院に電話をするようにと病院の電話番号を伝えられました。とにかく医師に電話をしましたが、脳内出血が進み時間が経過して、もう手術はできない状態であること、一刻も早く病院に来るようにという指示でした。訳も分からず、とにかく福島から千葉県の君津へと向かいました。車中での時間が経つのが本当に長かったことが今でも思い出されます。やっと到着した病院では高坂ももう意識不明の状態となっていました。そして翌朝、息を引き取ったのです。

 

私のポリオの研修もそして12月上旬に派遣予定の仕事もさすがにお断りせざる得ない状況でした。これまでの人生でずっと順調にキャリアを積んできた私にとりましては初めての挫折でありました。当時は高坂を失ったことへの悲しみと同時に悔しさで一杯の二重苦でありました。

 

そして18年という時が今、経過しました。そしてこの新型コロナウイルスのワクチンの問題が現実に起きていて初めて、私の過去がフラッシュアップしてきたのです。私は当時、予防接種やワクチンに対して何の関心や知識がなかったために、何の疑問も持っていませんでしたが、不幸中の幸いで私は沢山の予防接種を免れてきました。そして自分が介して西アフリカの人々に無知のままにワクチンを投与する前にその計画が阻止されたのです。

 

当時は誠に私の夢が途中で挫折し、非常に悔しかった記憶がありましたが、もしそのままその仕事をしていたならば、おそらく私はその加担者として大きな罪悪感に陥っていたのではないかと。人生の明暗というのがやっと18年経過して私の中で決着がついたのです。私はアフリカを知ることにより体験することにより今の私があること、人生の中で一番大きな経験を通して多くの事を学び、今でも感謝しています。その人々に人口削減などとんでもない政策でした。知らずの行為であっても後にわかれば後悔でしかなくなるのですから。(終わり)