パリダカ in サウジアラビア | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

今日のニュースの中でサウジアラビアで開催されていたダカールラリーに出場していたフランスのシャパン選手は10日に行われた第7ステージで、時速178キロで走行中に転倒し、サウジアラビア・ジェッダからフランスへ医療航空機での移送中に亡くなったというニュースを目にしました。

 

現在はダカールラリーと呼ばれていますが、1978年に第1回が開催されましたが、長い間パリダカとして日本では有名でした。つまりフランスのパリをスタートして、セネガルのダカールまでの行程を12月末からあるいは1月初旬スタートで過酷な砂漠のルートを制覇する冒険レースでで世界中の注目を浴びました。過去には今回のようにレース中に命を絶つことは珍しくなく、日本人選手も1986年のレースでは1500キロに及ぶレースの中で砂嵐に巻き込まれて死亡する事故がありました。

 

世界中で一番世間を騒がせたのは1982年の大会時に当時のイギリスの首相であったマーガレット・サッチャーの息子が一時行方不明となった事故でした。その後無事が確認されましたが、それでも今までずっと絶えることがなく続いてきたレースです。

 

当初のパリダカのルートはパリを出発し、スペイン経由にてアフリカ大陸に渡り、そして砂漠のメッカであるモーリタニアを通過し、最終ゴールがセネガルのダカールでした。ダカールと言いましてもダカール郊外のピンクレイクの湖沿いの浜辺が終点地でした。しかし2008年は走行区間のモーリタニアの治安悪化が原因で、開幕前日になって開催が中止となりました。それまでも事故の他に盗伐や射殺事件がありましたので仕方なかったかもしれません。このパリダカの終点地に私は何度足を運んだことでしょうか。

 

実はパリダカが中止となる2008年の直前の2007年12月はこのパリダカのゴール地点から陸路によって私はモーリタニアへの旅をしていました。その当時の写真はまだデジカメ時代ではなかったので、ずっと記録がないとばかりずっと信じていましたが、2日前の13日にCDに保存された出たばかりで精度の悪いデジカメで撮影したデータが出てきたのです。本当にびっくりしました。なぜ私は探したのか、それは12日にこのブログで書きましたが、東京の西アフリカレストランに行ったからです。翌日、そうこの写真が出てきたのです。

 

つまり人間は思考した時から出来事が起こるのです。常に思考し、それを行動に起こすことによって、物語が生まれるのです。ないと信じていたものが出てくるのですね。昨日はずっと消えたアトランティス大陸の事を考えていました。そうモーリタニアは失われたアトランティス大陸があった場所ではないかという説もあるのです。大陸がなぜなぜ砂漠の中に???私たちの常識ではありえない考えられないことが過去の歴史であることは大いに考えられるのです。

 

そして今日のダカールラリーでの事故ニュースで、ダカールラリーがサウジアラビアで行われていた事を知ったのです。このコースを見ましたところ私が訪問した地が沢山でていましたので、本当に懐かしくなりました。サウジアラビアが解放されて4カ月でコロナ禍で外国人観光客が封鎖されましたが、ダカールラリーは開催されていたのです。そうこのラリーは完全にオープンな砂漠地帯ですので、コロナとな無縁ですね。懐かしいの一言です。

 

そして舞台はサハラ砂漠から南米へと移っていきました。そしてさらに昨年2020年より今度は砂漠のメッカであるサウジビアに舞台が移され、今年が2年目となったわけです。サウジアラビアはムスリム以外の外国人の受け入れを認めていない国でしたが、2019年11月より正式にムスリム以外の外国人の受け入れ初めていました。ですから私も昨年2020年2月は12日間、サウジアラビアに滞在していました。これがコロナ禍前最後の海外渡航となったのです。

 

パリダカは今でも人々のロマンを掻き立てる冒険です。いつまでも冒険の扉を開けていてほしい。

 

パリダカの創始者は次のような言葉を残しています。「私は冒険の扉に導きます。扉の向こうには、危険が待っています。しかし扉を開くのはあなたがたです。望むのでしたら、お連れしましょう。」

 

砂漠の魅力と脅威(砂嵐等)はおそらく体験した人でないとわからないかもしれません。しかし一度この砂漠の魅力に引き込まれた人々は生涯忘れることはなく再び砂漠に戻っていくのです。