三和 導代 です。
最近の海外報道の中で気になっているのが、エチオピア北部での紛争です。国内最大民族オロモの出身で2018年に首相に就任したアビー氏は昨年、ノーベル平和賞に輝きました。その理由としてはエリトリアとの紛争解決後国交を復活させたこと功績によるものでした。
しかし今回は北部ティグレ州を支配するティグレ人民解放戦線(TPLF)との軍事衝突で、連邦政府軍が同州の州都メケレを制圧し戦闘では数千人が死亡、4万4千人が隣国スーダンに脱出したと報道されています。現在は世界からのメディアの立ち入りが禁止され、インターネットなどでの情報も封鎖されたままです。
メケレはエリトリアの国境からも遠くありませんし、エチオピアの観光の目玉でありますラリベラ、そしてダナキル砂漠やエルタアレイ火山への基点ともなっていますので、これまでに何度も訪れている場所です。標高も2000メートル以上あの高原ですので、この時期の朝晩の冷え込みは激しく、アフリカのイメージとは遠い気候です。
今回の紛争の裏には、少数民族ティグレ人勢力と、アビー氏ら最大民族オロモ人勢力の民族間の長い抗争がありました。2018年までは、ティグレ人らが約30年にわたり長期政権を敷き、人口が一番多いオロモ人など反発する勢力を政治犯として拘束していた時代がありました。政権交代後は、今度は逆にティグレ人元政府幹部らが汚職で捕まり、ティグレ人が反発していたという民族間の大きな隔たりがありました。
アビー政権は新型コロナウイルス感染阻止を理由に、今年8月に実施する予定だった国政選挙の延期を決定したことが今回の紛争の火種となりました。一方のティグレ州では9月、連邦政府の反対を押し切って地方選挙を強行したために決裂が決定的になったのです。
ティグレ人民解放戦線(TPLF)はアビィ首相と友好的な関係にあるエリトリアがエチオピア政府軍を支援しているとも主張してエリトリアの首都であるアスマラを攻撃しています。実はエリトリアとエチオピアは2019年に国交を復活させていますが、元々エリトリアとエチオピアは1991年にエリトリアがエチオピアから独立するまでは同じ国でした。
特に1世紀-940年頃のエチピアのアクスム王国はエリトリアとエチオピア北部とイエメンに栄えた交易国でした。アフリカで初めて独自の独自の硬貨も持ち貿易で栄えた王国でした。そのルーツはソロモン王とシバの女王の子であるメネリク1世の血筋であることを公称していました。つまりTPLFとエチオピアのアスマラの人々は同じティグレ人なのです。そして同一の王国であったのです。
しかし19世紀の終わりにイタリアにより現在のエリトリアの首都であるアスマラを中心に第二次世界大戦まで植民地化されていました。戦後イタリアから独立してからも同一王国でした。しかし同じティグレ人であるとは言え、長い間イタリアの植民地であったエリトリアとエチオピアとの間の亀裂は大きく、結局1991年にエリトリアはエチオピアから独立しました。そしてその後も両国の競り合いが続き、国境近くでの紛争は後を絶えませんでした。
2019年にやっと異なる民族であるアビー首相がエリトリアとの国交を回復させたということでノーベル平和賞が授与されたのです。そうなのです。とてもこの問題は複雑なのです。今では相反するエチオピアのTPLFとエリトリアの2つのティグレ人の間にオモロ人のアビー首相が仲介に入りました。これで平和と思いきや、何とアビー首相は今度はエチオピア側のティグレ人に対して世界中の世論を無視して戦闘行為を行ったのです。
根本には長ーい骨肉の争いがあったものの、国交が結ばれて平和になったように見えましたが、しかしエチオピア側の不満分子がそのまま黙ってはいなかったのです。エチオピアには80以上の民族が住んでいます。姿かたち、宗教、言葉、文化はそれぞれが全く異なっています。異なった民族がそれぞれの独自性を持って豊かに生活をしているエチオピアが私は大好きです。しかしそれを1つにまとめることがいかに大変なことであるか?
アフリカで唯一王国として君臨していたエチオピアの最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世がクーデターにより廃位したのが1974年でした。そして汚名回復後、2000年にアディスアベバの三位一体教会に埋葬され、昨年にはアディスアベバの宮殿が修復されハイレ・セラシエ1世の功績が一般の人々にも公開されました。そして今回はノーベル平和賞受賞者した首相が戦闘行為と、アフリカの優等生であると考えていたエチオピアでの出来事に私は心を痛めています。そしてメケレの人々の安否が気遣われます。