三和導代 です。
上古22代、天疎日向津比売天皇(別名は天照大御神)の時代の記録には縄文時代の生活そのものの記録が残っています。
「姫天皇即位50億千万年ケサリ月より、蚕養糸錦糸穀食物類14種、公畠公田作り、海魚漁らしむ海川野山開く。ネヤキ法を教しむ。鍋釜食器を、ロクロ似て造り、其方を万国へ教しむ。酒を造らしむ。味噌造り家屋造らしむ。糸にて綾を造り、男女衣暑装裳寒裳さえす。米栗を製す法を発明す」
つまり、蚕から糸を紡ぎ、14種類の穀物を栽培する。海川の魚を捕り、野山の獣や山菜を採る。食器をロクロを使って作り、酒や味噌まであった。家屋を建てる技法、衣服にも夏物と冬物があり、米や栗の製法を編み出した。という意味です。
これは最近わかってきた縄文人の生活ですね。前にも書きましたが、稲作は弥生時代に大陸から日本へもたらされたものではありません。縄文時代にはすでに稲作を日本を行っていました。また大切なご神事での神への奉納品でした。栗も広く栽培されていたことは三内丸山遺跡等からも証明されています。織物もあまり知られていませんが、新潟県平堂遺跡からは、縄文中期のアンギリ織の圧痕が確認されています。
稲作に関しましては既に全国の遺跡でその痕跡が発掘されていますが、未だに弥生時代に大陸からもたらされたという歴史が改定されないのは大変おかしなことです。竹内文書の上古4代の時代には万国の農法を広めたという記述がある通り、お米は日本人にとっての大切な主食だったのです。最近は小麦アレルギーの方が多く見られますが、米アレルギーは聞いたことがないですね。古来からの食ですので大切に日本で大切に栽培し食することが大切かと思います。