ウエツフミと竹内文書 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

ウエツフミ(上記)と竹内文書は共に偽書と呼ばれる古文書です。我が家の書棚にはウエツフミの原文併記の全訳の他に吾郷清彦氏の著書が昔から並んでいました。これを研究し神代文字である豊国文字から現代語に翻訳された吾郷清彦氏(2003年に他界)とは高坂和導がまだ20代の頃、富山で当時の古史古伝の研究者たちが泊りがけで、比較研究した時代があったからです。当時私はまだ高坂和導とは知り会っていませんでしたが、写真や資料が残っているのです。

 

20年近くも経過した今、数日前に書棚にありました吾郷清彦著「ウエツフミ原文併記全訳」5巻+付録・附篇全を取り出して斜め読みをし始めました。その理由には竹内文書の神武天皇以前にはウガヤフキアエズ朝は73代の記録がありますが、ウエツフミにおいてもウガヤフキアエズ朝は73代の記録が残っているからです。そして天皇名も非常にとてもよく似ているのです。

 

吾郷清彦氏の研究は実はウエツフミだけでなく、多岐に渡った神代文字、竹内文書やホツマツタエ等幅広いご研究された方でした。明治42年に島根県にお生まれですので、高坂和導は子供より若い存在だったと思います。満州電業に入社、満州に渡り、戦後に日本に戻られてから高校教員や水力発電所での仕事、その間、そして退職後もお亡くなりになるまで一筋に日本の真の歴史を研究された方です。

 

このウエツフミを編纂したのは大友能直朝臣は源頼朝の長男(庶子)です。(皇紀1883年、今より795年前)豊後国守護身職時代に自らが編纂の総裁となって嫡子親秀ほか7名の家臣に命じて編纂したものです。原本は大友本と宗像本の2種類がありますが、大友本は大分県立図書館に保存され47綴りに分けて綴じてあり、虫食いや腐食が甚だしいようです。

 

大友本のコピーによって精査したところ、下書き原稿に当たるもので、内容に粗製が多く、叙述に長短の差があり過ぎ、神名と尊名に統一性がないと吾郷氏は書かれています。

宗像本は41綴りの末尾で逸散と、少しの虫食いを除けば、完本ということから、吾郷氏の全訳は宗像本を根底として不明な箇所を大友本によって補足するという方針がとられたようです。

 

そしてこのウエツフミの原本の文字は神代文字である豊国文字であると言明されています。一部にはサンカ文字と言われていますが、サンカ文字は古体象字から新体象字に転化移行する中間象字である、つまりサンカ文字は豊国文字が変化する過程の文字であると。

 

宗像本の末尾の逸散とは、ウガヤフキアエズ朝の54代天皇の後半から68代の天皇までの記録が欠如を意味していますが、竹内文書と比較しても皇統譜にかする限り名称がほぼ合致しているそうです。

 

こういった観点より、やはり神武天皇より以前にはウガヤフキアエズ(不合)朝において天皇が73代続いていたのは間違いないようです。

故人が遺された神代文字から現代文が読めることに大変感謝しています。

                         吾郷清彦著「ウエツフミ原文併記全訳」5巻+付録・附篇全 霞が関書房刊