偽書とされる竹内文書と宮下文書 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

竹内文書の研究家・高坂和導の遺志を継ぎ、三和導代が古代スメラミコトの足跡をたどり、世界を旅するブログ

三和 導代 です。

 

先週の土曜日はヒカルランドで開催された不二阿祖太神宮の渡邉大宮司の講演会に出席しました。昨年の11月に出版された「不二阿祖山太神宮」の内容に基づいた講演会でした。

 

昨年10月にふとした私の思い付きで初めて「不二阿祖山太神宮」に参拝させていただき、神宮会館でお話をさせていただき、収穫祭に参加させていただきましたが、講演会に出席するのは初めてでした。

 

大宮司は宮下文書の研究家であり、また竹内文書に関してもかなりの研究をされていらっしゃいます。大学の神道学科を出られた方の知識とは全く別のご自身の足と直観で30年間ジックリ研究されたことがよくわかります。それはお話の内容や資料を照合するとよくわかります。当日購入させていただきました資料を自宅に戻り、著書と資料をじっくりつき合わせみますと、私の中で潜んで謎、竹内文書と宮下文書がつながってくるのです。

 

高坂和導は竹内文書の研究家でした。そして最後の晩年は(富士(不二)の地に籠り、また度々往復をし新国常立大神の出現のために動き回りました。なぜ、富士の地であったのか?その当時、そしてそれ以降もずっと理解に苦しむとことでしたが、渡邊大宮司の書著や資料をじっくり読み解きますと、高坂がなぜ命がけで動いたのかも理解できてくるのです。

 

高坂が最後に出版の準備をいていたのが「徐福」でした。亡くなる寸前まで動いていたのです。そう徐福の子孫が宮下文書を残したのです。

 

平成18年に不二阿祖山太神宮が建立されました。そうです。この地の小明見の太神社に国常立太神を主祭神としてお祀りしたかった平成14年のできごとが、現実化されていたのです。この太神宮の建設に当たっての同意書の名前を見た時に理解できました。

 

もともと古代日本の国常立太神が再び富士の地でお祀りされていたのです。またまた富士の地を往復することになりそうです。