静岡での講演会終了。 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 様

今日はLa Plan ・早川潤子さん主宰の竹内文書の講演会のために静岡に行ってきました。

講演会の前に武内宿祢が祀られる伊勢神明社に連れて行っていただきました。この地にもやはり武内宿祢が活躍されていたのです。

今朝静岡を訪問するに当たって、自宅を出る前に高坂和導が残した資料に目を通していたところ、静岡という字が目に入ってきました。

よくよく読みますと
「ユダヤ系の指導者たちはアイヌ人と縄文人を混同させて蝦夷とか東夷とか毛人と名づけた。こうした謀略からの日本人同志の戦いとなった。蝦夷は縄文の人々で亀ヶ岡土器をつくった文化人である。

ユダヤ系の蘇我氏の朝臣たちは、静岡にある東日本の統領である綾糟征伐をはかったが、聖徳太子はカナ書きの国書でアヤカスを招かれた。蝦夷のアヤカスは毛皮や織物などの土産をもって、強豪勇士10人を連れて大和に来た。太子はアヤカスを蝦夷の鎮撫使に任じて禄を賜ったという。

つまり聖徳太子は皇太子になられたのち、神国日本を立て直し、東西文化の融合をはかり、ユダヤの悪いところところをを取り除こうとされた。

一方ではユダヤ系の蘇我氏をなだめるため、秦(イスラエル)の河勝にさすらいの民を救わせ、京都の太秦と大阪市下河内郡の太秦に難民を収容して広隆寺を建て、イサライ十二井戸を作り、ユダヤの神を祭って安心させた。

神国に来た人たちをメシア(天皇)の国で安居安業させてのだ。

ところがユダヤ系は太子の子孫を全部殺し、根絶やしにした。・・・・・・」

こんな原稿がでてきました。

聖徳太子の神国日本への想いを今日は少しばかり付け加えてお話をさせていただきました。