「戰爭不滅論」
凡そ天地間に生を享くるもの一つとして我性を具へざるものなく、皆自ら其の我を愛せざるものなし。而して其生物は本来無一物なるを以て我が生存を保續する爲に他より物質を求めざる可らず。然ざれば枯死するの外無し。即ち、植物の其生を保たんが爲に土中より水分を吸収し、鳥獣は叉植物を食して生存し、人類が牛馬を使役して生存するが如し。而して其食せらるるもの空気水分の如き死物なるときは此に抗爭起こらずと雖も、苟も生を保つもの即ち生物なるときは假令植物なりとも我性を以て必ず多少の抗爭をなすべきは叉生存上當然の理なりとす。是れ即ち生存競爭の因て起こる所以にして所謂弱肉強食となり、適者のみ生存する所以なり。若し其眞理を的確に観念せんと欲せば、吾人が母の胎内を出て本来無一物ながら如何にして今日迄成長したるか、日々食ふ所の菜肉、著する所の衣服一つとして他を侵さずして得たるものにあらざるなり。
此生存競爭は苟も我なる本領を以て此世に出生したる者の爲さゞる可らざる天然自然の爭闘にして、若し此爭闘なからしめんとせば生者即滅の寂境を見るの外無く、即ち爭闘は生活に伴うものにして生活即ち戰爭なりとの極理に徹底する所以なり。
以上は單純なる生存競爭の根源を述べたるに過ぎざれども此生存競爭の情態は千様萬態に變化し、單に前記の如く牛馬が植物を食うが如き、即ち異類の浸食のみにあらずして叉同類間にも行わるゝものなり。例へば二獣の一肉片を爭うて噛闘するが如きものにて、人類の間にも此爭闘は常に絶えざるものなり。茲に二人の人ありて其間に一個の林檎あり之を喰わざれば生存する能わざる場合には忽ち茲に爭闘を起こし、其一人他の一人を殺倒若は屈服せしめ、果物を取って自己一人の食となさゞる可ざるに至る。爰に於て其一人は斃れざる可らざるなり。古の賢者は是等の爭闘の極端に走りて人類相互の幸福を害するを憂ひ、道徳家は或いは人類を擧げて之に絶對的信仰服従、宗教家は絶對的の萬有の力を有する神を崇拝して己れの欲せざる處之を人に施すこと勿れと説き、或いは身を殺して仁を爲せと教へ、我は餓死するも林檎を彼に與へよと言ふと雖も、素と是れ人類の天性を制御する強制的法則なれば、世界開闢以来未だ爭闘の絶えたること無く、人類の歴史は現象こそ變化するとも實に生存競爭の歴史にして諸種の状態に於て間断なく爭闘しつゝあり。而かも生存競爭は單に現下に必要のため目前の一林檎を爭奪する如きものならずして、之に欲望を加味して尚ほ将来のために之を貯へんとし、更に感情を加へて過去の報復を事とするに至る。其爭闘の爲に智力を研ぎ手段を盡し爭闘の情態は愈々益々複雑となり、所謂文明開化なるもの即ち制度文物技術の改善は或る意味に於て此の爭闘の方法の進化を示す外ならざるなり。
而して此等の爭闘は單一なる個人のみにあらずして漸次に擴張して團體の爭闘となり、或は家と家、或は族と族、或は郷と郷となり、叉州となり國となり、其團體中に於て各自の協同生活の爲に必要なる文物制度等を設け、叉自衛若は進略の爲に必要なる常備の武備機關を設くる迄にも今日は進化し来れり。叉其團體中に於て起る所の個人、個家の小爭の如きは法律を布き、決裁者を定め、其判決に依り爭闘を威力手段に訴へざる前に結著せしむるの道を設くと雖も、唯、手段の平和的なるのみにして爭闘の消滅したることなし。
此生存競爭團結の範圍は現時に於て其最大極限を國家の程度まで擴張し来り、地球表面に國する者は諸種の手段を盡して其生存に必要なる資料を爭奪す。而して地は物を生ずるものなるが故に土地の爭奪最多かりしも、近世は所謂利權の爭奪と進化し来るに至れり。而して其爭奪手段は必ずしも威力的ならずして工業商業植民地等の如き平和手段を用ふるもの多く、叉世界の交通漸く開けて列國の交際も次第に親密となり、叉昔時即ち秀吉が朝鮮を戮し、忽必烈が日本に寇せしが如き所謂侵略手段を見ずと雖も唯手段の進化したる迄にて利權爭奪、生存競爭は人類本来の持前として今日も尚ほ地球の表面に行はれつゝあり。而かも利權の擴張が相牴觸せざる時は其處に國爭起らざれども、一たび生存上の利害相衝突して甲國是れ我が利權なり乙國も亦是れ我が利權なりと主張して茲に意見の矛盾を見るときには先づ其理非を國際慣例等に匡し言爭を以て之を爭うと雖も、言爭決せざるときは遂に威力手段を用ふること尚ほ個人の口爭が腕力に化すると一般なり。此國と國との間の平和的抗爭が腕力的抗爭に變じたるものを稱して戰爭とは云うなり。
而して世界に國するものは皆此戰爭の惨害さを厭ひ、可成之を避け、生存競爭を平和的手段のみに限らんとし其利權の範圍を確定して爭奪なからしめんとするとも、人口の繁殖と共に其生存に必要なる物資及之を生ずべき土地の必要は次第に増加し、而かも天が動物に爪牙手腕を賦與したる以上は遂に戰はざらんとするも得べからず、即ち戰爭なるものは天に雷雨あり海面に風濤起こる如く物理上自然に起こるべきものにて、之を絶無ならしめんとするは單に人爲的に屬し自然にあらず、人多ければ天に勝つことありと雖も亦天定まりて人に勝の時節到来して遂に人爲は天爲に逆らふ能はずして戰爭を皆無ならしむる能わざるは必然なり。故に戰爭は永世絶ゆべきものにあらざるなり。而かも國家が干戈を以て爭闘する狭義の戰爭は其起こるべき間隔を或程度人爲的に延長し得れども所謂生活は戰爭なりと云ふが如き廣義の戰爭は日々夜々間斷なく活動の世界をなせることを觀ずれば所謂平和なるものも亦戰爭にして、吾人が先に戰術を研究して戰爭中に戰闘の起こるは僅少にして戰闘の間に間隔を見るが如く、叉大觀し来れば戰爭と戰爭との平和の間は所謂戰爭準備の時間なること尚ほ戰爭間に於ける戰闘の如きものなるを觀念するに至らん。即ち一國の歴史は連綿たる大戰爭なりと見ざる可らざるに至る。此大戰爭の大戰略即ち國是の大方針は其國の頭主の定めらるゝ處にて吾人の茲に研究せんとする處は此の如き大々戰略にあらずして唯前記したる戰爭の範圍内に於ける戰略である。
以上述べ来りたるが如く世界の列國は其存立の爲め常に其國利國權を保護すると同時に之を伸張せんとするが故に其意志衝突牴觸に依り遂に抗爭せざる可ざるに至り、理非を平和的手段に依り決する能はざるときは遂に戰爭なる威力手段に訴えざる可ざるに至るは人類の生存競爭より来るべき自然の趨勢にして決して避く可らざることなり。然れども若し此世界が統一せられて四海兄弟の理想の域に達し、恰も現下の一國が一領主を戴き法律を布き制度を置て自治せるが如くなるときは生存競爭の現象は或は平和的手段のみに依り、威力手段即ち戰爭なる現象を見ざるに至るべしとの理想を抱くものありと雖も、斯くの如き時代に至れば抗爭の範圍を大にして更に此世界即ち地球と他の世界即ち火星の如きものが相競爭せざる可ざるに至ることもあるべし。
然れば是に宇宙を統一せざれば戰爭を絶無ならしむる能はず、然るに宇宙は洪大無邊にして統一し得べきにあらず、統一さるゝものは宇宙にあらざるなり、而かのみならず分合は事物の眞理にして合すれば分れ分るれば合ふものなるは人事も物理に洩るゝことなく、周天下を統一すれば春秋戰國に分れ、秦之を統一して更に、漢楚となり、漢天下を定むれば更に三國を生ずるが如き分合離結の現象は過去の歴史に之を見る如く将来にも亦是あるものと覺悟せざる可ざる。
故に此理勢より見るも亦統一期す可らず、従って戰爭の熄むことなきを見るに足るなり。叉吾々人間は其れ程迄に戰爭を嫌悪せざる可ざるかも亦疑なき能はず。戰爭は惨憺たるに相違なしと雖も之を避けて他人の侵害に屈服して其惨苦を嘗むると何れが嫌悪すべきやと問へば寧ろ前者を優れりとす。況や吾人は己に生物の天然として其生存の爲に競爭せざる可ざるの天分を有せり。生活は戰爭なりの定義より云えば初より戰爭は人間としてなさざる可ざるものと覺悟し必要あれば之を敢行せざる可らず、故に吾人は戰爭を好むべきにあらざると同時に叉悪むべきにあらざるなり。
即ち、吾人は渇すれば飲み餓すれば食ふが如き歡念を以て必要上より戰爭を見るを可とす。古哲曰く國雖大好戰者危、國雖安忘戰者亡(国大なりといえども戦を好めば必ず亡び、天下安なりといえども戦を忘れれば必ず危し)、實に至言にして彼の戰爭を嫌悪して人爲的に之を絶無ならしめんとして却て之に倍する惨害に陥るべきを覚えざる徒と、又彼の必要以外濫りに腕力を労してその贏ち得たる處失う處を償はざるが如きものとは共に憐むべき愚者の見なり。