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徹王のブログ

少しでも理解していただければ嬉しいです

東日本大震災での麻薬追放国土浄化同盟と山口組の救援支援活動の様子

主な活動地 宮城県全域、岩手県全域、福島県南相馬市・いわき市・福島市

東日本大震災では被災直後に現地での状況を独自の情報網で把握し、麻薬追放国土浄化同盟と六代目山口組は、
支援物資の調達と物資搬入ルートを確保した。
そして第一陣は3月15日に被災地を大寒波が襲うと聞き、支援物資を積込み現地に出発した。
14日には20時間を掛け第一陣が被災地に支援物資を届けたのである。
それとともに山口組の各組織は、北は北海道から南は九州までの組織が、物資を積み被災地に向かったのであった。
彼等は、ボランティア団体と連携を取りながら、必要な場所に必要な物資を届ける機動性を見せたのである。
このノウハウは三代目山口組田岡一雄親分の時より、代々受け継がれてきた、ボランティア活動の成果によるものであると考える。
原発事故直後に彼等は、NHKの報道で子供を抱えたお母さんが「福島は日本から見捨てられました。私たちには何も物資がありません。私たち親子を助けたください」との
映像を観て、南相馬市・いわき市に放射能汚染をものともせず、他のボランティア団体よりも、いち早く救援物資を届けたのでした。
この支援活動に共感した全国の若者たちはインターネットを通じ、互いに連絡を取り、自費で被災地へと向かい、我々とともに救援支援活動を行った。






「町火消しの頭台と新門辰五郎


幡随院長兵衛の死後、時流は急速に奴達の取り締まりを強化し、明暦元年(1659年)11月の中山勘解由〈鬼勘解由〉の行った博徒狩りを皮切りに、奴達は厳しく処断されて行く。

 衰退する奴達はやがて解体へと追い込まれるのだが、それが決定的と成ったのが、貞享三年(1683年)9月27日の大刈込みであるという。

大刈込みは一度に200余名を追捕し、その魁首(主だった者)111名を斬罪とした。

町奴は斬罪という残酷史で町から姿を消す事となる。

(『仁侠百年史』参照)


旗本奴・町奴は先に説明したとおりであるが、加えておくと町奴は元々その大多数が戦国期の浪人者やその血筋の者、年貢未進で田を捨てた農民、借金の利息に追われる者、農民、町人の三男坊以下で厄介者扱いされる者達など、幕政の犠牲になり社会組織から疎外された者でしめて居たという現実があるから、彼らの持つその反権力、反幕的思考がそのまま一切消えてなくなる筈もないと思うのは至極当たり前だと想うのだが如何なものか…。


(猪野健治/著「やくざと日本人」)によれば、

『旗本奴が自滅の道をたどったのに比し、町奴は、〈都市の勃興に伴う市民権発動の影響〉白柳秀湖『親分子分』侠客編〉の下に頭台しただけに、被支配層の反権力的風潮に支えられて、しばしば行われた奴狩りにもかかわらず容易には衰退しなかった。

それが衰退に至ったのは、町奴の初期の反権力的俠気がしだいにうすれ、無頼化した事もさることながら、小普請の義務が金納制に改められ(元禄二年1689年)、従来の形で口入れ稼業が成り立たなくなった為である。この幕府の知能的な政策によって、町奴の時代は、終わりを告げる。』と、ある。

私は後者の方が信憑性が有ると支持したい。


いずれにしても、変わりゆく時代の流れに翻弄されて、奴という組織が消滅したという事実に誤りはないようだ。

やがて奴に代わって、民衆の前衛と成りうる者として町火消しの集団へと変化して行く。

発展して行く江戸の町の要請に応じて台頭した故に、江戸中期以後の親分子分集団の主流となった…と、猪野健治氏は書いている。

町火消しは鳶を主流に建設関係の人足を生業としながら、幕府より命じられた「江戸の町を火災から守る」という使命を担う運びと成り、一種の市民兵的存在として被支配階級の抵抗の前衛と成っていったという。

多くは旦那衆を持ち、経費は一切町費で賄われたらしく、町人の人気を集めて居たという事がよくわかる。

当時の江戸ではとにかく火事は一大事であり「地震、雷、火事、親父」といった言葉が残っているように、庶民の脅威であったことは論をまたない。

そんな脅威の火事場という一種の戦場に、組頭の命令一下、命をも顧みず飛び込んで行く粋な俠気を民衆は愛し、その人気を集めたのであろう。

現代の様な装備もなく、素肌に近い姿で、水をかぶって飛び込み火消しに当たるのであるから、大火ともなると死人が続出した事は想像に明るい。

任俠道をそのまま絵にしたような行動に、人間としての魅力を感じ、人気が上がらない訳が無いのである。

組頭以下、組纏いを先頭に一蓮托生、生死を共にした運命共同体的生活から、自然と親分子分、兄弟分の情義が生まれたというのもよく理解できる。


『本邦俠客の研究』という文献の一文からそれがよくわかる。

『彼等の生活が斯如きものであったから、火消頭と鳶もとの間には、自然親分子分の関係が結果するに至り、常に困苦を共にし、生死を共にするの情義が生まれた……組合中の者は常に信義を重んじ、廉恥を尚とんで、他の組々に対し自己所属の組の纏いを汚さざらん事を心掛けたから、その団結は愈々固く、また武家方火消しに対しては、町方の面目を維持することに専念した。』と、ある。

こうして成り立った町火消しの組織が、仁俠団体の原型と成った事が見てとれる。


享保4年(1719年)4月 町奉行大岡越前守忠相が、一番組から10番組に、〈い・ろ・は〉48組を分け、町火消しの形態が築かれたという。

町火消しはその人気から、様々な形で町人に頼られ、自然と街の治安維持に貢献する事となり、その組々が担う地域の揉めごと、喧嘩の仲裁、商家にきてユスリ・タカリを働く無頼漢を追っ払う、などの事までが彼らの仕事の一部に組み込まれて行ったという。


さて、町火消しの成り立ちについて記述したが、町火消しとくれば、御存じ歴史にその名を残す、新門辰五郎の登場である。

大前田栄五郎、江戸屋虎五郎と並んで、「関東の三五朗」と呼ばれた、俠客きっての俠客である。

新門辰五郎は寛政十二年(1800年)に下谷山崎町の飾り職人の長男として生まれ、本名を中村金太郎といった。
火消しになる切っ掛けは、煙管職人であった父の死であったようだ。
辰五郎の父は、自分の留守中に弟子が火事を起こしてしまった事から、「世間に申し訳ない」と火の中へ身投げし自殺してしまったそうだ。
 金太郎(辰五郎)は16歳の時、浅草金竜寺の新門の衛士で『浅草十番組『を組』の頭であった、町田仁右衛門の下に弟子入りをしたという。
町田氏は、亡き息子の名前「辰五郎」を金太郎に与え、跡目としてすぐに期待されたという。

18歳にして町田氏に養子に出され、「新門」

と俗称したいわれは、浅草寺・伝法院の新しい通用門の番人を任された事からなのだという。

ところでこの辰五郎は喧嘩好きで、めっぽう腕っ節が強かったらしい。

当時十番組頭取であった町田氏に若くして見込まれたというから、度胸もなみの度量では無かったのだろうという事が伺われる。


 辰五郎が火消しとして最初に名を上げたのが、

文政四年(1821年)浅草花川戸の火事。

『を組』は一番に火事場へ駆けつけ、纏を揚げたのだが、遅れてやってきた立花将監お抱え火消しの横やりに会い、消し口の取り合いから、相手の纏い持ちを屋根の上から蹴落として大怪我を負わせ、火事そっちのけで大喧嘩となった。

 大勢の怪我人を出した事で責任を感じた辰五郎は、火が鎮火した後、けじめをつける為に将監屋敷へと単身で出向き、

「下手人は俺だ。どうなと勝手にしろ。」

と、啖呵を切ったという。

将監は辰五郎のその気概に押されたのか、はたまたその心意気がかわれたのか、実の処は分からないが、辰五郎はなにも手を下されず、何の責任も問われずに帰されたという。

この話が江戸中に広まり、「を組の新門辰五郎」の名を、一躍世間に知らしめる運びとなったのだというのは信憑性が有る。

 つづいて文政七年(1824年)吉原の火事。

この時の喧嘩は、多くの組を巻き込んだ江戸最大の喧嘩となったらしいが、その際も辰五郎は喧嘩を仲裁し、またまたさらに男を上げ、多くの鳶仲間から信頼されるようになったのだという。

 それから天保五年(1834年)7月芝麻布桜田町の武家屋敷が全焼した。

この大火でも大喧嘩が勃発する。

消し口の取り合いから、「ろ組」(二番組)と「と組」(十番組)がわたりあい、辰五郎配下の「を組」の梯子持ちの一人が、手元の狂った鳶口を脳天に受け重傷を負った。

これを見た「を組」の鳶はいきり立ち、あわやこれは手の着け様もない大乱闘となろうとする図となったが、それを見て取った辰五郎がその渦中に飛び込み、

「この喧嘩は辰五郎があずかった」

と割って入った。

丁度そこへ注進によって南町奉行池田播磨守が駆け付け、

「辰五郎、この仲裁、その方に任せたぞ。」

と、馬首を帰して引き揚げて行ったらしく、辰五郎の仲裁で喧嘩は丸く収まり、下手人を出さずに済んだという。

こうした事実を見ると、この時すでに新門辰五郎は、お上からも一目置かれる俠客として名が通って居たに違いない事が解る。

以上の事は、『江戸火消し年代記』に記載の史実であるが、辰五郎が如何に統率力に優れ、義俠心に富んでいたかが見てとれる。


それから数年後、町田氏に跡目と見込まれていた辰五郎は、町田氏の娘と結婚し、辰五郎24歳にして「を組」の組頭となり、十番組の頭取にまで収まったという。


余談であるがこの町火消しの組頭は、世襲かもしくは娘に身内から統率力に優れた者を選び、婿養子に迎える事で代目を継承させたようである。

つまりは、先に記載の通り、実子を亡くした町田氏は、辰五郎にその影を見て居たのか、辰五郎という名前を与えた時から、娘婿として代目を継がせようという考えであったことは間違いないだろう。


そんな順風満帆な辰五郎にも、思い掛けない災難が降りかかる事となる。

 弘化二年(1845年)正月二十四日、江戸の大火事が起きる。

火元は青山権田原付近で、西北の烈風に煽られて燃え広がり、大名屋敷150ヶ所、旗本屋敷285ヶ所、寺院187カ所、灰になった町は126町におよんだ。

この大火で武家火消し、町火消しの全員が出勤した。

辰五郎率いる十番組は芝三田の久留米藩邸付近へ出勤し、町家への類焼を防ぐため、破壊消防に取り掛かったところ、有馬頼永の率いる武家火消しが出張ってきて、なんと「を組」の纏い持ちを突き飛ばし火消し口を奪ってしまった。

当然そんな理不尽が通る筈もなく、喧嘩に発展したのは言うまでもない。

辰五郎ひきいる「を組」を中心とした十番組は、総勢950人、いずれも血気盛んな若者達ぞろいで、双方入り乱れて大喧嘩へと発展してしまう。しかし「勇将の下に弱卒なし・・・」

と、言うように、辰五郎率いる十番組は、大名お抱えの有馬勢(武家火消し)と渡り合い、一歩も引かなかったという。

結果は、有馬方に18人に対し、十番組は7人の怪我ですみ、結果は十番組の大勝となった。

しかしそれでは「御正道がまかり通らぬ」という事となり、辰五郎は、この喧嘩の責任者としての責任を取らされ、江戸十里外に追放とされてしまうのである。

それでもそこは新門辰五郎、夜になると秘かに愛妾宅にやって来ては、あれこれと采配を振るったらしく、それが役人の耳に入って、再逮捕される羽目となった。

 辰五郎は事実を否認したので、酷い拷問を受けたが一切口を割らず、手を焼いた奉行所は、二人の愛妾を証人に呼び対決させたが、それでも辰五郎は、

「この女はどこの女衆か存じません。私は一度も会ったことも御座いません。」

と、突っぱねたという。

愛妾の一人が、

「親分、どうかまげて白状して下さい。罪は私達二人で引き受けますから」と、泣き口説くと、

「黙れ、ばいた奴、お前達は何の恨みが有って、この俺を罪に落そうとするのか」

と、叱り飛ばしたという。

(田村栄太郎『やくざの生活』参照)


辰五郎は愛妾達を巻き込んで、その者に「罪人としての苦労を味あわせる訳にはいけない…」

といった一心での行為であったと想像できる。

しかしてその結果は、辰五郎は佃島へと送られる羽目となった。


 佃島とは、寛政二年(1790年)2月に石川大隅守の屋敷裏の湿地16,000余坪を埋め立てて造られた人足寄場で、石川島人足寄場とも呼ばれた軽い科人の懲役所である。


しかし辰五郎、実に幸運の持ち主であった。

弘化三年(1846年)1月15日に江戸の大火が起き、それは小石川から霊岸島まで焼け抜け、住宅その他13,600戸を焼失するという凄まじいものであったというのだが、その火は辰五郎が収監されている佃島迄襲い、辰五郎は持ち前の俠気と、火消しの頭取としての経験を生かし、囚人達を指揮して消火に当たった為、その功を御上に認められた事によってご赦免となるのである。

時代の英雄とは得てしてこういうもので、生れついた幸運を備えていると言うが誠か否か…。


 ともあれこうした一連の事件で一躍有名を馳せ、江戸市中はおろか、方々の業界人に迄名前が知れ渡ったのだという。

辰五郎は、「興行師はもとより、浅草観音参詣客相手の露天商からカスリを上げ、博打も打った為に、的屋・博徒の両方から畏怖された」…と、ある。

辰五郎は、「来る者は拒まず

といった考えで、鳶人足はもとより、ごろつき、罪人、寄場帰りの者、流れ者など、区別なく抱えた為、その子分は「辰五郎親分の為なら…」

と、いう命知らずの子分が2000人も、3000人もいたというが、それも至極信憑性のある話である。

中には行状の悪い者もしばしば居り、事件を引き起こしたりしている。


 これも余談ではあるが、当時の大建造物といえば、興行の劇場だったというが、その劇場とは町の中央にあり、多くの観客が集まるので火災が起こりやすく、劇場は町方だから、出火ともなれば町火消しの世話になる。加えて建築を手掛けるのは大抵が鳶を中心とした建築関係の仕事を請け負う職人であるから、つまりは町火消しが担当する事と成る。

そうした背景が有って、劇場主や興行主は、興行の度に、地元の鳶頭の処へと付渡り(包み金)を届けるようになったらしい。

それが相撲、寄席、仮設興行などありとあらゆる興行まで広がり、的屋でいう「ショバ代」「ゴミ銭」、「博打のカスリ」、なども一体化、混合化し、町火消しの収入源の中でも相当のウエイトを占めるに至ったという事である。

町火消し(鳶人足)は、それに報いるに、防火を兼ねて人を出し、場内整理、客制限、警備などを引き受ける事と成ったという。

(『やくざと日本人』猪野健治 参照)


こうして幕末の鳶人足・町火消しを代表する親分・新門(町田)辰五郎は、興行師はもとより、テキヤ、博徒の双方から畏怖される大親分と成って行ったのだ。

辰五郎は支援者にも恵まれていた。これも偏に人間新門辰五郎の人徳というものなのだろう。

辰五郎は、上野東叡山の管轄下にあった浅草寺の門番方を、上野大慈院の義寛より任される。

門番方というと錯覚されがちであるが、それは端役などではなく、要は浅草寺の風紀衛生を取り仕切るだけの事で無く、境内の一切の利権、つまりは露店や仮設興行、見世物などの総てを任せられたのである。

これに付随して、人ごみを縄張りとするスリや街頭易者などからも付け届けが届くといったように、莫大な資金源と成った事は言うまでもない。なんでも、こうして集まるゴミ銭を入れてあった押入れの床が抜けた程にゴミ銭が集まったという。

藤口透吾によれば、この上野大慈院の義寛が、後の十五代将軍となる徳川慶喜に結びつけたのだという。

辰五郎の娘は徳川慶喜の愛妾に成っている。

その故あってか、幕府の統制が緩み、時流の流れから叛乱の狼煙が上がる頃になると、慶喜は、辰五郎を頼るようになり、様々な文献を見るにその間柄は旗本並みに親密である。

辰五郎は、慶喜の命令通り良く働いたらしいが、慶喜の義父である事を自己の繁栄のため活用したことも事実であるようだ。


この辺から幕府は加速して時代の波にのまれて行くのだが、余りに徳川慶喜に近かった新門辰五郎も、そうした時代の波に翻弄されて行く。
 文久三年(1863年)、十四代将軍徳川家茂が京都警備の必要から上洛する事と成り、二条城に入城するにあたり徳川慶喜も同行した。その際、慶喜の警護として辰五郎は子分300人を従え一行に加わったというから、本物の佐幕派だったことが伺える。

京都につくと、二条城の防火を任され警備をしたというから面白い。

 家茂が休止して後、十五代将軍徳川慶喜が誕生する訳だが、この最後の将軍様が、偉かったのか、はたまた愚鈍であったのかの評価はさまざまにしろ、いずれにしても鳥羽伏見の戦い以後、幕軍が戦いに敗れた事を聞いた徳川慶喜は、敵前逃亡といったら聞こえも悪いが、大阪城からそそくさと開陽艦(幕府の軍艦)に周囲の主だった者と乗り込み、撤退の準備に取り掛かったらしい。

しかしそのさい幕軍は、家康公から代々受け継がれてきた由緒ある徳川の馬印(大金扇の馬印)を大阪城に忘れてしまい、その馬印を取ってくるよう辰五郎に命じたという。

辰五郎は二つ返事でそれを請け負い、見事に大阪城から奪還するに成功して戻ったが、その時すでに遅く、開陽艦は出発してしまっていた為、あえなく陸路、東海道を上って追っかけたという事である。

また慶喜が大政奉還して、水戸へ謹慎する事と成ったときは、御用金の二万両は辰五郎が輸送した。と、田村栄太郎氏は書いている。


『氷川情話』などを見ると辰五郎は、幕末の三舟で名高い勝海舟との繋がりもあったらしく、

「新門の辰はもののわかった男だ。こういう男は金や威光では動かず、意地で行動する」

などと記載してある。

 勝海舟と西郷隆盛との会談が決裂した場合、江戸市中に放火する役目を仰せつかっていたのが辰五郎らだったという説もあるが、その辺は定かではない。

史実を見ると、

慶応四年(1868年)一月、朝廷は鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜に対し、徳川征討令を発し、薩摩・長州の藩兵を主流とする五万の征討軍は直ちに江戸に向かった。

これを聞いた慶喜は、即座に大政奉還して上野東叡山大慈院に蟄居し、恭順謝罪書を御上に提出した上、江戸城を征討軍に引き渡したが、それをよしとしない旧幕臣配下の彰義隊五千人が、上野の山にこもり最後の抵抗を試みた。

勝海舟は、両軍の戦火で江戸市中が火の海と化すことを懸念し、町火消し四十八組に出動態勢を取らせる一方、親分衆に働きかけて、江戸市中の警備を要請したとなっている。

辰五郎はこの時、「を組」の二百数十人を引き連れて、征討軍の放火で燃え上がる東叡山に駆け上り消火にあたっている。

芝居などでは、これが辰五郎が官軍を向こうにまわしての、一世一代の大喧嘩などとしているが、幾ら度胸が据わっていたとしても、飛んでくる大砲の弾に鳶口一つでかなう筈もなく、命からがら逃げのびたと言う事は想像の出来るところである。

ただ、戊辰戦争に際して、江戸に火災・盗賊の横行等が最小限に止められたのについては、町火消し四十八組の統制のとれた市民兵的行動が大きく寄与していた事は確かだと見られる。

勝は官軍の江戸進撃の前夜、手薄になった江戸の治安を、町火消しとごろつきの親分たちに頼みまわったが、親分たちは勝の申し入れを

「へぇ、わかりやした。この顔が入用でしたら何時でも御用に立てます。」

と、二つ返事で引き受けたという。

勝は、官軍江戸入城後、無政府状態であったにもかかわらず、放火や盗賊の横行が少なかったのは、彼らの力による処が大きいと評価している。

明治二年(1869年)九月、徳川慶喜は謹慎を解かれ、水戸から静岡へと移った。この際も辰五郎は慶喜に同行している。


静岡では、勝と共に幕末の三舟の一人といわれ、勝海舟の腹心であり、西郷隆盛と直談判し江戸城を無血開城へと導いた立役者の一人、山岡鉄舟がおり、また、鉄舟を師事していた清水港の親分、ご存じ清水次郎長ともこのとき出会い、共に親睦を深めた。

辰五郎と次郎長はその後、兄弟分の契りを交わしたという。

勝の腹心・山岡鉄舟を、西郷隆盛との江戸城無血開城への会談に向かう際、護衛をしたひとりが次郎長だった。


明治二年(1871年)、東京府に消防庁が設立され、町火消しは従来の町抱えから、府の直轄になったことなどから、慶喜の警護を清水次郎長(当時50歳)に託し、浅草に戻る。


明治八年(1875)九月十九日、浅草馬道の自宅で病没する。


新門辰五郎 享年70歳
「町火消しの頭台と新門辰五郎」


幡随院長兵衛の死後、時流は急速に奴達の取り締まりを強化し、明暦元年(1659年)11月の中山勘解由〈鬼勘解由〉の行った博徒狩りを皮切りに、奴達は厳しく処断されて行く。

 衰退する奴達はやがて解体へと追い込まれるのだが、それが決定的と成ったのが、貞享三年(1683年)9月27日の大刈込みであるという。

大刈込みは一度に200余名を追捕し、その魁首(主だった者)111名を斬罪とした。

町奴は斬罪という残酷史で町から姿を消す事となる。

(『仁侠百年史』参照)


旗本奴・町奴は先に説明したとおりであるが、加えておくと町奴は元々その大多数が戦国期の浪人者やその血筋の者、年貢未進で田を捨てた農民、借金の利息に追われる者、農民、町人の三男坊以下で厄介者扱いされる者達など、幕政の犠牲になり社会組織から疎外された者でしめて居たという現実があるから、彼らの持つその反権力、反幕的思考がそのまま一切消えてなくなる筈もないと思うのは至極当たり前だと想うのだが如何なものか…。


(猪野健治/著「やくざと日本人」)によれば、

『旗本奴が自滅の道をたどったのに比し、町奴は、〈都市の勃興に伴う市民権発動の影響〉白柳秀湖『親分子分』侠客編〉の下に頭台しただけに、被支配層の反権力的風潮に支えられて、しばしば行われた奴狩りにもかかわらず容易には衰退しなかった。

それが衰退に至ったのは、町奴の初期の反権力的俠気がしだいにうすれ、無頼化した事もさることながら、小普請の義務が金納制に改められ(元禄二年1689年)、従来の形で口入れ稼業が成り立たなくなった為である。この幕府の知能的な政策によって、町奴の時代は、終わりを告げる。』と、ある。

私は後者の方が信憑性が有ると支持したい。


いずれにしても、変わりゆく時代の流れに翻弄されて、奴という組織が消滅したという事実に誤りはないようだ。

やがて奴に代わって、民衆の前衛と成りうる者として町火消しの集団へと変化して行く。

発展して行く江戸の町の要請に応じて台頭した故に、江戸中期以後の親分子分集団の主流となった…と、猪野健治氏は書いている。

町火消しは鳶を主流に建設関係の人足を生業としながら、幕府より命じられた「江戸の町を火災から守る」という使命を担う運びと成り、一種の市民兵的存在として被支配階級の抵抗の前衛と成っていったという。

多くは旦那衆を持ち、経費は一切町費で賄われたらしく、町人の人気を集めて居たという事がよくわかる。

当時の江戸ではとにかく火事は一大事であり「地震、雷、火事、親父」といった言葉が残っているように、庶民の脅威であったことは論をまたない。

そんな脅威の火事場という一種の戦場に、組頭の命令一下、命をも顧みず飛び込んで行く粋な俠気を民衆は愛し、その人気を集めたのであろう。

現代の様な装備もなく、素肌に近い姿で、水をかぶって飛び込み火消しに当たるのであるから、大火ともなると死人が続出した事は想像に明るい。

任俠道をそのまま絵にしたような行動に、人間としての魅力を感じ、人気が上がらない訳が無いのである。

組頭以下、組纏いを先頭に一蓮托生、生死を共にした運命共同体的生活から、自然と親分子分、兄弟分の情義が生まれたというのもよく理解できる。


『本邦俠客の研究』という文献の一文からそれがよくわかる。

『彼等の生活が斯如きものであったから、火消頭と鳶もとの間には、自然親分子分の関係が結果するに至り、常に困苦を共にし、生死を共にするの情義が生まれた……組合中の者は常に信義を重んじ、廉恥を尚とんで、他の組々に対し自己所属の組の纏いを汚さざらん事を心掛けたから、その団結は愈々固く、また武家方火消しに対しては、町方の面目を維持することに専念した。』と、ある。

こうして成り立った町火消しの組織が、仁俠団体の原型と成った事が見てとれる。


享保4年(1719年)4月 町奉行大岡越前守忠相が、一番組から10番組に、〈い・ろ・は〉48組を分け、町火消しの形態が築かれたという。

町火消しはその人気から、様々な形で町人に頼られ、自然と街の治安維持に貢献する事となり、その組々が担う地域の揉めごと、喧嘩の仲裁、商家にきてユスリ・タカリを働く無頼漢を追っ払う、などの事までが彼らの仕事の一部に組み込まれて行ったという。


さて、町火消しの成り立ちについて記述したが、町火消しとくれば、御存じ歴史にその名を残す、新門辰五郎の登場である。

大前田栄五郎、江戸屋虎五郎と並んで、「関東の三五朗」と呼ばれた、俠客きっての俠客である。

新門辰五郎は寛政十二年(1800年)に下谷山崎町の飾り職人の長男として生まれ、本名を中村金太郎といった。
火消しになる切っ掛けは、煙管職人であった父の死であったようだ。
辰五郎の父は、自分の留守中に弟子が火事を起こしてしまった事から、「世間に申し訳ない」と火の中へ身投げし自殺してしまったそうだ。
 金太郎(辰五郎)は16歳の時、浅草金竜寺の新門の衛士で『浅草十番組『を組』の頭であった、町田仁右衛門の下に弟子入りをしたという。
町田氏は、亡き息子の名前「辰五郎」を金太郎に与え、跡目としてすぐに期待されたという。

18歳にして町田氏に養子に出され、「新門」

と俗称したいわれは、浅草寺・伝法院の新しい通用門の番人を任された事からなのだという。

ところでこの辰五郎は喧嘩好きで、めっぽう腕っ節が強かったらしい。

当時十番組頭取であった町田氏に若くして見込まれたというから、度胸もなみの度量では無かったのだろうという事が伺われる。


 辰五郎が火消しとして最初に名を上げたのが、

文政四年(1821年)浅草花川戸の火事。

『を組』は一番に火事場へ駆けつけ、纏を揚げたのだが、遅れてやってきた立花将監お抱え火消しの横やりに会い、消し口の取り合いから、相手の纏い持ちを屋根の上から蹴落として大怪我を負わせ、火事そっちのけで大喧嘩となった。

 大勢の怪我人を出した事で責任を感じた辰五郎は、火が鎮火した後、けじめをつける為に将監屋敷へと単身で出向き、

「下手人は俺だ。どうなと勝手にしろ。」

と、啖呵を切ったという。

将監は辰五郎のその気概に押されたのか、はたまたその心意気がかわれたのか、実の処は分からないが、辰五郎はなにも手を下されず、何の責任も問われずに帰されたという。

この話が江戸中に広まり、「を組の新門辰五郎」の名を、一躍世間に知らしめる運びとなったのだというのは信憑性が有る。

 つづいて文政七年(1824年)吉原の火事。

この時の喧嘩は、多くの組を巻き込んだ江戸最大の喧嘩となったらしいが、その際も辰五郎は喧嘩を仲裁し、またまたさらに男を上げ、多くの鳶仲間から信頼されるようになったのだという。

 それから天保五年(1834年)7月芝麻布桜田町の武家屋敷が全焼した。

この大火でも大喧嘩が勃発する。

消し口の取り合いから、「ろ組」(二番組)と「と組」(十番組)がわたりあい、辰五郎配下の「を組」の梯子持ちの一人が、手元の狂った鳶口を脳天に受け重傷を負った。

これを見た「を組」の鳶はいきり立ち、あわやこれは手の着け様もない大乱闘となろうとする図となったが、それを見て取った辰五郎がその渦中に飛び込み、

「この喧嘩は辰五郎があずかった」

と割って入った。

丁度そこへ注進によって南町奉行池田播磨守が駆け付け、

「辰五郎、この仲裁、その方に任せたぞ。」

と、馬首を帰して引き揚げて行ったらしく、辰五郎の仲裁で喧嘩は丸く収まり、下手人を出さずに済んだという。

こうした事実を見ると、この時すでに新門辰五郎は、お上からも一目置かれる俠客として名が通って居たに違いない事が解る。

以上の事は、『江戸火消し年代記』に記載の史実であるが、辰五郎が如何に統率力に優れ、義俠心に富んでいたかが見てとれる。


それから数年後、町田氏に跡目と見込まれていた辰五郎は、町田氏の娘と結婚し、辰五郎24歳にして「を組」の組頭となり、十番組の頭取にまで収まったという。


余談であるがこの町火消しの組頭は、世襲かもしくは娘に身内から統率力に優れた者を選び、婿養子に迎える事で代目を継承させたようである。

つまりは、先に記載の通り、実子を亡くした町田氏は、辰五郎にその影を見て居たのか、辰五郎という名前を与えた時から、娘婿として代目を継がせようという考えであったことは間違いないだろう。


そんな順風満帆な辰五郎にも、思い掛けない災難が降りかかる事となる。

 弘化二年(1845年)正月二十四日、江戸の大火事が起きる。

火元は青山権田原付近で、西北の烈風に煽られて燃え広がり、大名屋敷150ヶ所、旗本屋敷285ヶ所、寺院187カ所、灰になった町は126町におよんだ。

この大火で武家火消し、町火消しの全員が出勤した。

辰五郎率いる十番組は芝三田の久留米藩邸付近へ出勤し、町家への類焼を防ぐため、破壊消防に取り掛かったところ、有馬頼永の率いる武家火消しが出張ってきて、なんと「を組」の纏い持ちを突き飛ばし火消し口を奪ってしまった。

当然そんな理不尽が通る筈もなく、喧嘩に発展したのは言うまでもない。

辰五郎ひきいる「を組」を中心とした十番組は、総勢950人、いずれも血気盛んな若者達ぞろいで、双方入り乱れて大喧嘩へと発展してしまう。しかし「勇将の下に弱卒なし・・・」

と、言うように、辰五郎率いる十番組は、大名お抱えの有馬勢(武家火消し)と渡り合い、一歩も引かなかったという。

結果は、有馬方に18人に対し、十番組は7人の怪我ですみ、結果は十番組の大勝となった。

しかしそれでは「御正道がまかり通らぬ」という事となり、辰五郎は、この喧嘩の責任者としての責任を取らされ、江戸十里外に追放とされてしまうのである。

それでもそこは新門辰五郎、夜になると秘かに愛妾宅にやって来ては、あれこれと采配を振るったらしく、それが役人の耳に入って、再逮捕される羽目となった。

 辰五郎は事実を否認したので、酷い拷問を受けたが一切口を割らず、手を焼いた奉行所は、二人の愛妾を証人に呼び対決させたが、それでも辰五郎は、

「この女はどこの女衆か存じません。私は一度も会ったことも御座いません。」

と、突っぱねたという。

愛妾の一人が、

「親分、どうかまげて白状して下さい。罪は私達二人で引き受けますから」と、泣き口説くと、

「黙れ、ばいた奴、お前達は何の恨みが有って、この俺を罪に落そうとするのか」

と、叱り飛ばしたという。

(田村栄太郎『やくざの生活』参照)


辰五郎は愛妾達を巻き込んで、その者に「罪人としての苦労を味あわせる訳にはいけない…」

といった一心での行為であったと想像できる。

しかしてその結果は、辰五郎は佃島へと送られる羽目となった。


 佃島とは、寛政二年(1790年)2月に石川大隅守の屋敷裏の湿地16,000余坪を埋め立てて造られた人足寄場で、石川島人足寄場とも呼ばれた軽い科人の懲役所である。


しかし辰五郎、実に幸運の持ち主であった。

弘化三年(1846年)1月15日に江戸の大火が起き、それは小石川から霊岸島まで焼け抜け、住宅その他13,600戸を焼失するという凄まじいものであったというのだが、その火は辰五郎が収監されている佃島迄襲い、辰五郎は持ち前の俠気と、火消しの頭取としての経験を生かし、囚人達を指揮して消火に当たった為、その功を御上に認められた事によってご赦免となるのである。

時代の英雄とは得てしてこういうもので、生れついた幸運を備えていると言うが誠か否か…。


 ともあれこうした一連の事件で一躍有名を馳せ、江戸市中はおろか、方々の業界人に迄名前が知れ渡ったのだという。

辰五郎は、「興行師はもとより、浅草観音参詣客相手の露天商からカスリを上げ、博打も打った為に、的屋・博徒の両方から畏怖された」…と、ある。

辰五郎は、「来る者は拒まず

といった考えで、鳶人足はもとより、ごろつき、罪人、寄場帰りの者、流れ者など、区別なく抱えた為、その子分は「辰五郎親分の為なら…」

と、いう命知らずの子分が2000人も、3000人もいたというが、それも至極信憑性のある話である。

中には行状の悪い者もしばしば居り、事件を引き起こしたりしている。


 これも余談ではあるが、当時の大建造物といえば、興行の劇場だったというが、その劇場とは町の中央にあり、多くの観客が集まるので火災が起こりやすく、劇場は町方だから、出火ともなれば町火消しの世話になる。加えて建築を手掛けるのは大抵が鳶を中心とした建築関係の仕事を請け負う職人であるから、つまりは町火消しが担当する事と成る。

そうした背景が有って、劇場主や興行主は、興行の度に、地元の鳶頭の処へと付渡り(包み金)を届けるようになったらしい。

それが相撲、寄席、仮設興行などありとあらゆる興行まで広がり、的屋でいう「ショバ代」「ゴミ銭」、「博打のカスリ」、なども一体化、混合化し、町火消しの収入源の中でも相当のウエイトを占めるに至ったという事である。

町火消し(鳶人足)は、それに報いるに、防火を兼ねて人を出し、場内整理、客制限、警備などを引き受ける事と成ったという。

(『やくざと日本人』猪野健治 参照)


こうして幕末の鳶人足・町火消しを代表する親分・新門(町田)辰五郎は、興行師はもとより、テキヤ、博徒の双方から畏怖される大親分と成って行ったのだ。

辰五郎は支援者にも恵まれていた。これも偏に人間新門辰五郎の人徳というものなのだろう。

辰五郎は、上野東叡山の管轄下にあった浅草寺の門番方を、上野大慈院の義寛より任される。

門番方というと錯覚されがちであるが、それは端役などではなく、要は浅草寺の風紀衛生を取り仕切るだけの事で無く、境内の一切の利権、つまりは露店や仮設興行、見世物などの総てを任せられたのである。

これに付随して、人ごみを縄張りとするスリや街頭易者などからも付け届けが届くといったように、莫大な資金源と成った事は言うまでもない。なんでも、こうして集まるゴミ銭を入れてあった押入れの床が抜けた程にゴミ銭が集まったという。

藤口透吾によれば、この上野大慈院の義寛が、後の十五代将軍となる徳川慶喜に結びつけたのだという。

辰五郎の娘は徳川慶喜の愛妾に成っている。

その故あってか、幕府の統制が緩み、時流の流れから叛乱の狼煙が上がる頃になると、慶喜は、辰五郎を頼るようになり、様々な文献を見るにその間柄は旗本並みに親密である。

辰五郎は、慶喜の命令通り良く働いたらしいが、慶喜の義父である事を自己の繁栄のため活用したことも事実であるようだ。


この辺から幕府は加速して時代の波にのまれて行くのだが、余りに徳川慶喜に近かった新門辰五郎も、そうした時代の波に翻弄されて行く。
 文久三年(1863年)、十四代将軍徳川家茂が京都警備の必要から上洛する事と成り、二条城に入城するにあたり徳川慶喜も同行した。その際、慶喜の警護として辰五郎は子分300人を従え一行に加わったというから、本物の佐幕派だったことが伺える。

京都につくと、二条城の防火を任され警備をしたというから面白い。

 家茂が休止して後、十五代将軍徳川慶喜が誕生する訳だが、この最後の将軍様が、偉かったのか、はたまた愚鈍であったのかの評価はさまざまにしろ、いずれにしても鳥羽伏見の戦い以後、幕軍が戦いに敗れた事を聞いた徳川慶喜は、敵前逃亡といったら聞こえも悪いが、大阪城からそそくさと開陽艦(幕府の軍艦)に周囲の主だった者と乗り込み、撤退の準備に取り掛かったらしい。

しかしそのさい幕軍は、家康公から代々受け継がれてきた由緒ある徳川の馬印(大金扇の馬印)を大阪城に忘れてしまい、その馬印を取ってくるよう辰五郎に命じたという。

辰五郎は二つ返事でそれを請け負い、見事に大阪城から奪還するに成功して戻ったが、その時すでに遅く、開陽艦は出発してしまっていた為、あえなく陸路、東海道を上って追っかけたという事である。

また慶喜が大政奉還して、水戸へ謹慎する事と成ったときは、御用金の二万両は辰五郎が輸送した。と、田村栄太郎氏は書いている。


『氷川情話』などを見ると辰五郎は、幕末の三舟で名高い勝海舟との繋がりもあったらしく、

「新門の辰はもののわかった男だ。こういう男は金や威光では動かず、意地で行動する」

などと記載してある。

 勝海舟と西郷隆盛との会談が決裂した場合、江戸市中に放火する役目を仰せつかっていたのが辰五郎らだったという説もあるが、その辺は定かではない。

史実を見ると、

慶応四年(1868年)一月、朝廷は鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜に対し、徳川征討令を発し、薩摩・長州の藩兵を主流とする五万の征討軍は直ちに江戸に向かった。

これを聞いた慶喜は、即座に大政奉還して上野東叡山大慈院に蟄居し、恭順謝罪書を御上に提出した上、江戸城を征討軍に引き渡したが、それをよしとしない旧幕臣配下の彰義隊五千人が、上野の山にこもり最後の抵抗を試みた。

勝海舟は、両軍の戦火で江戸市中が火の海と化すことを懸念し、町火消し四十八組に出動態勢を取らせる一方、親分衆に働きかけて、江戸市中の警備を要請したとなっている。

辰五郎はこの時、「を組」の二百数十人を引き連れて、征討軍の放火で燃え上がる東叡山に駆け上り消火にあたっている。

芝居などでは、これが辰五郎が官軍を向こうにまわしての、一世一代の大喧嘩などとしているが、幾ら度胸が据わっていたとしても、飛んでくる大砲の弾に鳶口一つでかなう筈もなく、命からがら逃げのびたと言う事は想像の出来るところである。

ただ、戊辰戦争に際して、江戸に火災・盗賊の横行等が最小限に止められたのについては、町火消し四十八組の統制のとれた市民兵的行動が大きく寄与していた事は確かだと見られる。

勝は官軍の江戸進撃の前夜、手薄になった江戸の治安を、町火消しとごろつきの親分たちに頼みまわったが、親分たちは勝の申し入れを

「へぇ、わかりやした。この顔が入用でしたら何時でも御用に立てます。」

と、二つ返事で引き受けたという。

勝は、官軍江戸入城後、無政府状態であったにもかかわらず、放火や盗賊の横行が少なかったのは、彼らの力による処が大きいと評価している。

明治二年(1869年)九月、徳川慶喜は謹慎を解かれ、水戸から静岡へと移った。この際も辰五郎は慶喜に同行している。


静岡では、勝と共に幕末の三舟の一人といわれ、勝海舟の腹心であり、西郷隆盛と直談判し江戸城を無血開城へと導いた立役者の一人、山岡鉄舟がおり、また、鉄舟を師事していた清水港の親分、ご存じ清水次郎長ともこのとき出会い、共に親睦を深めた。

辰五郎と次郎長はその後、兄弟分の契りを交わしたという。

勝の腹心・山岡鉄舟を、西郷隆盛との江戸城無血開城への会談に向かう際、護衛をしたひとりが次郎長だった。


明治二年(1871年)、東京府に消防庁が設立され、町火消しは従来の町抱えから、府の直轄になったことなどから、慶喜の警護を清水次郎長(当時50歳)に託し、浅草に戻る。


明治八年(1875)九月十九日、浅草馬道の自宅で病没する。


新門辰五郎 享年70歳

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暴力団排除条例を考える 本当の暴力団 麻薬利権とは何か?

暴力団排除条例の施行に伴い、産経新聞の山□組の組長へのインタビューが話題になっているそうなんですが



暴力団排除条例の全国施行と電力会社の原発作業員確保。
http://surouninja.seesaa.net/article/228961081.html も参考に


産經新聞は、山□組の言い分を真摯に取り扱っているようである。

ちなみに、毎日新聞の記者さんに聞いた話なのだが、毎日新聞は、山□組の内部に記者を常駐させているそうです。

「それ、大丈夫なんですか?」と聞くと

話によると、暴力団というより、正に闇の紳士と呼ぶに相応しい感じだそうな。




このように、大新聞と指定暴力団というのは、実は、あまり敵対していないのである。というか、むしろズブズブの関係のようである。



さて、暴力団とは何だろうか??


元フォーブスの記者であるジャーナリストのベンジャミン・フルフォード氏は、フォーブスの取材で、日本に巣食う暴力団の仕組みを暴いていったわけだが、日本の暴力団を暴く分には、フォーブスは全然オーケーだったらしい。しかし、その先に出て来るアメリカの組織に触れると、途端に記事がキャンセルになったそうである。

それを繰り返している内に、氏は、日本の暴力団は、実はアメリカの組織の下請けに過ぎないことに気付かされたと述べている。


実は、管理人も、様々な事件を調べているうちに、同じ結論に達したのである。

暴力団は、C○Aの下請けである。


その暴力団を排除するっていうんだから、面白い話なのだが。。

ジャーナリストの広瀬隆氏は、原発に反対するため、東京電力の一口株主になり、株主総会に乗り込んだことがあるそうだ。

そうしたら、仰天したそうです。株主総会に出席しているのが、ほとんど暴力団だったからだ。

つまり、東京電力は暴力団の巣窟だったのである。
だから、東京電力の幹部は、総会屋対策の出来る人物しか成ることが出来なかった。
原発の知識など無関係だったのである。

そして、原発を稼働させるための下請け作業員は、暴力団が集めていたわけだ。

普通の人が、そんな危険な作業するわけが無かったのである。

で、そもそも、東京電力と原発と暴力団の関係というのは、どれほど深いのか??

それを知るための一つ良い例がある。

それは、オウム事件である。
プルサーマル計画とオウムの事件は、かなりシンクロしているのだが、それもそのはず、オウム事件のバックに居たと言われる山□組系G組の組長は、富士川電灯=東京電力の前身組織の創業者一族だったのだから。

まあ、そういうことです。

311地震と福島第一原発事故は、どこまでが人為的なのか? も参考に


さて、暴力団といえば薬物だが、日本において元々アヘン売買に絶大な権力を持っていたのは、台湾総督であり後の東京府知事 後藤新平である。

後藤新平は、関東大震災の後にロ○クフェラー財団の支援を受けてあれこれしたことで有名なのだが

そこから、色々な派生が起きるわけだが、一番大規模になったのは、満州である。

それを司ったのが、自民党の元首相アベちゃんの祖父である岸信介だ。

で、ご存知のように、岸信介が戦後、C○Aに引き抜かれるわけです。

同じように、満州の麻薬利権というのは、関東軍+満鉄+日本陸軍という構造にありました。

その陸軍のアヘン売買を司った主役の一人が、これまた自民党の谷垣総裁の祖父である影佐 禎昭、そしてパートナーの里見 甫でありまして、この昭和通商と三井物産、それに三菱商事がアヘン売買を行っていたわけです。

福田内閣改造人事とアヘン売買の歴史 も参考に


そして、アヘン資金を工作するために作ったのが、現在の広告代理店の親玉『電通』でありました。

で、その陸軍の資金の絡みで、陸軍主計局から、後の産經新聞やらフジテレビやら経団連が作られるのでありますな。

これが、戦後、C○Aの手羽先になっていったのであります。

その筋から、北朝鮮の拉致事件が出てくるのが非常に興味深いことでありまして、原発が壊れるとなぜか拉致被害の報道の洪水になったりするのでありますね。

TPP・セシウム除去剤・プルトニウム・拉致問題

もう一つの311東海村動燃再処理工場爆発事故と原爆プルトニウム計画 も参考に



ちなみに、
311地震の4ヶ月前に日本初の放射性セシウム体内除去剤が認可されてた件 で出て来た住友化学は、戦争中、覚醒剤であるヘロイン=通称ヒロポンを作っていた大日本製薬が合併して出来た会社ですな。

で、TPPやりなさいと言ってるのは、経団連でして、現在の経団連の会長が、住友化学の会長でありまして、副会長が、東京電力の清水社長です。



こう考えていくとですね。

暴力団とは何か?
覚醒剤利権とは何か?という、この国の根本部分に触れざるを得ないわけです。


暴力団の本体というのは、むしろ、この国の中枢部分に居る人達なのです。
正に闇の紳士ですな。


本当に、『暴力団追放』と言った時に、追放しなきゃいけないのは、一体全体誰なんだろう??っていうことでありますね。


で、覚醒剤ですが、現在でも覚醒剤を堂々と宣伝して販売してる人達がおりまして、それが、大手製薬会社なのです。

たとえば、SSRI型抗鬱剤やSNRI型抗鬱剤というのは、仕組みがヘロインとほぼ同一なのでありまして、これはどこからどう考えてみても覚醒剤なのでありまして、これを販売しているのは、グ○クソスミスクラインでありますとか、△ァイザーでありますとか、三□田辺製薬だったりしますね。

SSRI型抗鬱剤を認可し、販売始めたのは、ブッシュ(父)が大統領に就任した時なわけでありまして、言うまでもなく、ブッシュ(父)と言いますのは、元C○A長官なのであります。

関連記事
SSRI型抗鬱剤の闇その1

SSRI型抗鬱剤の闇その2

SSRI型抗鬱剤の闇その3

秋葉原連続殺傷通り魔事件と薬物の接点

茨城連続殺傷事件と危険なクスリ

JR福知山線脱線事故の深層 も参考に


管理人の推計によると、これらの覚醒剤類似薬によって、年間2万人くらいの人が、自殺しているのではないかと思っています。
それは、自殺者のグラフを見ていて思ったことです。
これらの覚醒剤類似薬がアメリカで認可される以前と比較すると、それだけ自殺者が増えているということです。

もちろん、その中には、C○A人体実験も含まれていたと当然考えるべきでしょうし、オウムの事件の本質も正にその部分にあると考えられるからです。

これは、今回の311大震災の死亡者に匹敵する値であると思いますし、これは、現在も進行形の問題です。



覚醒剤利権というのは、一体全体どこにあるのだろう??と思わざるを得ないわけでありまして、で、そもそも世界最大の暴力団は誰かと位言いますと、アメリカでございます。


もう一度、繰り返しますが、本当に、『暴力団追放』と言った時に、追放しなきゃいけないのは、一体全体誰なんだろう??っていうことでありますね。

えーと、オバマ大統領にお尋ねしたいと思います。
C○A追放しちゃって良いですかね~??

一般市民が、頑張れっていう、警察(特に警察庁長官)のたっての希望なので、頑張りたいと思うのですが。。
どうなんでしょう??
 --全国で暴力団排除条例が施行されるなど暴力団排除の機運が急速に高まっているが、どのように捉えているか

 異様な時代が来たと感じている。やくざといえども、われわれもこの国の住人であり、社会の一員。昭和39年の第1次頂上作戦からこういうことをずっと経験しているが、暴力団排除条例はこれまでとは違う。われわれが法を犯して取り締まられるのは構わないが、われわれにも親がいれば子供もいる、親戚もいる、幼なじみもいる。こうした人たちとお茶を飲んだり、歓談したりするというだけでも周辺者とみなされかねないというのは、やくざは人ではないということなのだろう。しかも一般市民、善良な市民として生活しているそうした人たちがわれわれと同じ枠組みで処罰されるということに異常さを感じている。先日、芸能界を引退した島田紳助さんの件は条例施行を前にした一種のデモンストレーションだったとしか受け止められない。われわれは日本を法治国家と考えている。俺自身も銃刀法違反罪で共謀共同正犯に問われた際、1審では無罪という微妙な裁判だったが、最高裁で実刑判決が確定した後は速やかに服役した。法治国家に住んでいる以上は法を順守しないといけないとわかっているからだ。今回の条例は法の下の平等を無視し、法を犯してなくても当局が反社会的勢力だと認定した者には制裁を科すという一種の身分政策だ。今は反社会的勢力というのは暴力団が対象だが、今後拡大解釈されていくだろう。
 --今後、山口組をどのように運営していくつもりなのか。広域暴力団という形を捨てたり、解散したりする考えはないか

 山口組を今、解散すれば、うんと治安は悪くなるだろう。なぜかというと、一握りの幹部はある程度蓄えもあるし、生活を案じなくてもいいだろうが、3万、4万人といわれている組員、さらに50万人から60万人になるその家族や親戚はどうなるのか目に見えている。若い者は路頭に迷い、結局は他の組に身を寄せるか、ギャングになるしかない。それでは解散する意味がない。ちりやほこりは風が吹けば隅に集まるのと一緒で、必ずどんな世界でも落後者というと語弊があるが、落ちこぼれ、世間になじめない人間もいる。われわれの組織はそういう人のよりどころになっている。しかし、うちの枠を外れると規律がなく、処罰もされないから自由にやる。そうしたら何をするかというと、すぐに金になることに走る。強盗や窃盗といった粗悪犯が増える。大半の人たちはわれわれを犯罪者集団と突き放していることはわかっている。その一因が私たちの側にあるのも事実で、そうした批判は謙虚に受け止める。しかし、やくざやその予備軍が生まれるのは社会的な理由がある。そうである以上、俺にできることは、これまで以上の任侠道に邁進する組織にすることだ。ぜい沢を求めて、自分勝手な行動を取る者は脱落する。組員はごく普通に暮らせればいい。そういう人間を一つの枠で固めているから犯罪が起きにくいという一面もある。矛盾しているように聞こえるかもしれないし、なかなか信じてもらえないだろうが、俺は暴力団をなくすために山口組を守りたいと考えている。そのことはこれからの行いで世間にご理解を願うしかない。
 --山口組は覚醒剤や不良外国人との接触を禁じているが、この方針を守り切れていない状況がうかがえる

 山口組は厳しく覚醒剤と不良外国人との接触を禁じている。実際、山口組が、薬物の売買や不良外国人との接触を本当にしているのならば、今以上に治安が悪化し、薬物も蔓延しているはずだろう。ただ、末端の組員の一部不届き者たちが禁止事項を破り、われわれの目を盗んで己の欲望を満たすために任侠道の名を汚していることは紛れもない事実。だから、せめてそういう組員を少なくしないといけないということで麻薬撲滅を標榜している。まず内側から浄化していかないといけないということだ。外部に対して撲滅なんておこがましいことを言っているわけではない。不良外国人たちは今、日本のやくざが行き過ぎだと思える法令、条例が施行されて以降、われわれが自粛している間に東京の池袋や新宿、渋谷、あるいは名古屋、大阪などのたくさんの中核都市に組織拠点をつくり、麻薬、強盗などあらゆる犯罪を行っている。これが今後、民族マフィアと化していったら本当に怖くなるだろう。こちらもおこがましいが、それらの歯止めになっているのが山口組だと自負している。中部地方の場合、麻薬は全部外国人がやっている。山口組の組員は一切やっていない。名古屋に錦という飲み屋街があるが、外国人を一人も入れていない。かつては外国人がいっぱいで薬物を売ったりしていたが、20年前に閉め出した。そうしたら新栄という街に流れた。全部閉め出したら、窮鼠猫を噛むで収拾がつかないのでそこだけは外国人に開放しているが、その地域の治安がものすごく悪い。外国人同士の抗争事件もここの地域だけで起きる。しかも外国人は10代の女の子を標的にしている。1人に薬を渡して、今度はその子らが友達に、と輪が広がっているため、麻薬犯罪の低年齢化が進んでいる。もしわれわれが組織的に麻薬に手を出したら、ある程度の矜持といったらおかしいが、子供には渡さない。しかし、外国人は売ってなんぼだから小学生だろうが全然関係ない。

日本任俠道の歴史を文献などに見るに、様々な学者の見解があるが、尾形鶴


吉は、室町時代~戦国時代末期の遊俠無頼の簇出が俠客の胎児としている。


(ヤクザと日本人 猪野健治/著 参照)


 皆さんも御存知の室町時代の英雄、楠木正成公の冠「悪徒」から端を発し、


そうした正義の為には己を顧みないとする男気の強い者達を、悪徒・男立など


という呼び方をし、この者達が始まりであったとされる。


 この時代から、時代のひずみから生まれた、カブキ者・浮浪人などと呼ばれ


る時代の異端児達が現われたとの事だ。


戦国末期を経て江戸時代に移行すると、呼び方も様々となり、カブキ者・奴(旗


本奴・町奴)・キホヒ者・六法者・テンガフ者・トヲリモノ・タテ衆・伝法・俠客などと


いう呼び方をし、そうした者達が俠客の原点なのだとされている。

 

流動体が人間の本然なのであるから、定着性を持ってから人間性にひずみ


を生じ、ひずみの方を生活の定型としたところにあらゆる人間の不幸がはじ


まったと、藤田五郎は書いている。

 

話は少し逸れるが、猪野健児/著「ヤクザと日本人」によれば、この任俠道を


重んじるヤクザ社会のヤクザという語源は、花札博打で言うところの八九三、


足してブタ、点にならないカス札からきた訳だという説と、役参・厄座、という当


て字から来たものだという説も示されており、この役参は江戸末期、博徒が町


方の与力、同心の手先を務めたことから、役に参ずる→役参と、書くようになっ


たとされている。


厄座は、文字通り厄な座の意であるとし、稼業そのものが法度で、斬った張っ


たが日常のヤクザには、明日の安らぎはない。


彼らはそんな境遇を自ら「厄な座」と称したのだろうともしている。

他、私の知る限りでは、江戸時代、薩摩藩が地域の治安維持の為、藩内の各


町の血気盛んな荒くれ者を集め、その役を与え、それ等を纏める顔役を棟梁と


して迎えた。役の上に座るの意から、「役座」とした事が語源になったという説も


ある。


 さて、本題に戻るが、こうした無頼の徒をまとめる顔役(親分)が出てくる。その


最も著名な者として、幡随院長兵衛がいる。


日本任侠道の原点は、幡随院長兵衛であるとして進めていきたい。江戸時代


に入って人間のひずみが、旗本奴と町奴の対立となって現れた。


 江戸時代初期の旗本達は、我らの天下と鼻息が荒く、町人や奉公人に対し


て問答無用斬り捨て御免の行動があり、奴(若党)にも被害が多かった。


そうした旗本達に対して、自衛的な奉公人連盟をつくってその棟梁に座ったの


が大島逸平であった。


 大島は、旗本北河権兵衛が些細なことから若党を手打ちにしたことから端を


発し、同僚の石井猪助が友の敵として主人権兵衛を殺害した件で、役人が捉


え詰問した処、


「同僚の仇討ちをして何が悪いか。これが大島組の盟約だ。」

と、胸を張っていったものだから、幕府は主人より同僚を大切にされては封建


制の基盤が崩れると危惧し、体制の維持のために大島組の主だった者三百余


人と共に捕らえられ処刑された。


首領の大島は江戸市中引き回しの上獄門に処された。

 大島は江戸の侠客の元祖として尊敬され、新しい時代の強力な町奴の誕生


を見るようになる。


そこに登場するのが「おわけぇの、お待ちなせえ…」のセリフで有名な番随院長


兵衛なのである。


 当時、穀潰しとされていた諸大名の旗本の家に生まれた次男、三男坊達が、


徒党を組んでは悪事を働いていた。その乱暴狼藉は凄まじいものであった事


は論を待たない。


大額・大月代を競い、朱鞘・黄漆・大鍔の長刀を帯びた。このスタイルがいつご


ろからか「男伊達」(おとこだて)とよばれるようになると、ますます増長し、商家


から「お断り」と称して金品を巻き上げる徒党になっていく。


加賀爪甲斐守、坂部三十郎、水野十郎左衛門、柴山弥惣左衛門らがその悪


名高い旗本奴である。


 たとえば水野十郎左衛門は白柄組の頭領で、金時金兵衛らの四天王の下に


百人の子分を抱え、身なりは白縮緬一枚で通すという独得の痩我慢である。


「世での振舞いで人後に落ちることは死ぬ以上の恥辱」

と、みなしていたふしがあり、持ち合わせがなくとも料理屋で美酒美食をとっ


て、店の者が不足がましい態度をちょっとでも示せば難題をふっかけて暴れま


わるのだが、丁重に扱われると、後刻「さきごろは過分であった」などとして、請


求を上回る金を機嫌よく届けたりもした。


おまけにどうも“衆道”をモットーとしていたらしい。“衆道”はいささかホモセク


シャルな趣向のことをいう。


 白柄組・神祇組・六法組・吉弥組・旅籠組・鶺鴒組などの旗本奴があり、特に


外様大名格の旗本三千石、水野十郎左衛門成之が率いる白柄組が最も勢力


があったという。


この外様旗本達は、結束して譜代旗本に白い目を向け、異端児として憂さ晴ら


しにはしったとある。

 

これに対して、庶民の前衛と成って擁護した者達の誕生が町奴の存在なの


である。町奴の親分は一種の人入れ稼業を営んでいたようだ。


その首領で組を持つ者は、番随院長兵衛、その子分、唐犬権兵衛、ざる八兵


衛、死人小右衛門、放駒四部兵衛、勘三ぶ弥平、薩摩源五兵衛、冥途の小


八、大仏ぶ、小仏小平、神田弥吉、佐野治郎左衛門、居首甚兵衛、小八郎兵


衛、手くない庄九郎、唐犬与兵衛、唐犬三右衛、おひょう庄右衛門、五郎次五


郎右衛門、ざる夢右衛門、夢の市郎兵衛(放駒の弟)、らが、江戸で侠客として


名を売っていた。


 当時大阪の侠客としては、一寸徳兵衛、半時九郎兵衛、獄門庄兵衛、釣船


の三婦、根津四郎右衛門、極印千右衛門、庄九郎らが有名であったらしい。


 長兵衛は常に庶民側に立って旗本奴達と闘って行くのだが、その心情として


は、常に周囲を巻き込まぬようにと気遣っていたという。


そこには自身の利害など全く存在しない。

まさに無私無欲、庶民の前衛となっている事を痛感させられるのである。


弱き者には滅法優しく、強き者には徹底して押し切るといった姿が歴然として


いるから痛快である。


同時に庶民に慕われた事実は論を待たない。また多くの子分を有した事実を


一見しても、長兵衛が優れた俠客であった事を思わずにいられない。


長兵衛は常に毅然とし、勇猛果敢でありながらも判断力に優れ、多面に気配り


のある人柄であったに違いない。


当然周囲の人望を集めていたことだろうと想像してしまうのは私だけなのだろう


か…。


 やがて長兵衛は、水野十郎左衛門達旗本奴の罠である事を予感しつつも、


「喧嘩の手打ち」をしたいというその誘いに乗り、ともの一人も連れずに水野の


屋敷に出向く。


長兵衛は宿敵旗本奴の首領、水野十郎左衛門の胸に、己の俠心が通じ、分


かり合えることを一心に信じて出向いたのであろうことが伺える。


誘いから逃げれば当然蔑まれ、その俠が廃る。町奴の対面も保たれぬであろ


う。まして、日常繰り返される抗争の収まりが着かなくなる事を憂いたのだろ


う。


 常々周囲の者を巻き込まぬ様にと気遣った長兵衛だからこそ、自分の命を盾


に、繰り返される抗争に終止符を打ちたかったに違いない。


水野十郎左衛門の屋敷に供の一人も連れず、堂々と単身で訪ねた長兵衛の


理由は、その他に考えられない。


 長兵衛は水野他、旗本奴白柄組三十数人が待ち構える中に、ゆったりと静


かに入っていったという。


毅然と慇懃な挨拶をすると、水野から話の前にと風呂を進められる。

水野達は、風呂は裸にならなければ入る事ができない、つまりは寸鉄も帯びら


れないということから、長兵衛が用心し、臆病風を吹かせそれを断るだろうと踏


んでの事であった。


断れば当然「町奴の首領は意気地がない」と、吹聴できると考えてのことだろ


う。

 しかし、長兵衛は断らなかった。


堂々と裸になって敵陣で悠然と風呂に入って見せたのだった。

 長兵衛は単身であるから、堂々と渡り合えば胸の内を認められもし、これま


での抗争に決着が着けられるかもしれない…と、いう想いがあったに違いな


い。

 水野はじめ旗本奴達はその長兵衛の貫禄に驚嘆したが、同時に色めき立っ


た。あまりの潔さに貫禄負けし、反って「このまま返すな…」と、いう思いに駆ら


れたのだろう…

 やがて長兵衛は、その思いと裏腹に旗本奴の手に掛かり、勧められた風呂


場の中で槍で突かれて絶命してしまうわけだが、この時、水野十郎左衛門の


胸に幡随院長兵衛の思いが届き、その死を酷く惜しんだという事に演劇では


なっている。


 しかし、その実情は誰が知る由もない。


享年三十六歳 明暦三年(1657)七月の事であった。








「暴力団排除条例」を考える

 勿論、暴力団には反対だ。なくなってほしいと思う。だから、今回の「暴力団排除条例」も、〈排除〉は当然だと思う。しかし、この条例には、曖昧な部分もある。「暴力団への利益供与」「密接な関係がある」と認定されるとインターネット上で企業名が公開される。悪質だと判断されれば「1年以下の懲役または50万円以下の罰金が科せられる」可能性もある。
 この暴排条例は10月1日から東京都と沖縄県で施行され、これで47都道府県すべてで暴排条例が整うことになる。暴力団の宴席と知りながら、写真サービス業者が記念撮影の業務を受注したり、酒・生花・すし・そば・ピザなどの宅配業者が商品を届けることなども利益供与とみなされる。余興として所属歌手を派遣した芸能事務所や、会場を提供した不動産賃貸業者も罰則の対象になる。
 でも、暴力団と知らないで届けたらどうか。又、どう見ても暴力団に見えない人が来て、大量に買って行ったらどうか。注文する人全てに、「あなたは暴力団ですか、違いますか?」と聞くわけにはいかない。
 暴力団と知らないで配達し、後で暴力団と分かったらどうするか。「そうならないように、警察に相談しろ」と言うのかもしれない。少なくとも、「疑問がある」「迷う」時は、警察に聞き、判断をあおぐことになる。ますます警察に頼ることになる。「でも暴力団が横行するよりは、警察が強くなるほうがいいだろう」と言う人もいる。しかし、「究極の選択」をしてるのではない。警察国家化するのも嫌だ。
 「みかじめ料」などの資金提供を遮断し、暴力団に一切、金が行かないようにする。それが第一の目的だという。繁華街、飲食店街を縄張りとする暴力団が、そこにある店などから、「用心棒代」「ショバ代」を取り立てていた。そのかわり、何かもめ事があったら、すぐに駆けつけてくれて、解決してくれる。そういう「保険料」でもあった。その話を断ったら大変な事になる。だから店側は、恐怖で金を払っていた。
 つまり、「加害者」と「被害者」として、今までは警察は見てきた。1992年の暴対法(暴力団対策法)を作った時はそういう考えだった。だから、警察は被害者を守り、加害者の暴力団を徹底的に取り締まる。この方針でやってきた。ところが、暴力団は減らないし、暴力事件も多い。これは「被害者」だと思った商店主や民間人が暴力団に金を出しているからだ。進んで金を出す。あるいは脅かされて金を出す。どっちにしろ、金を出して暴力団の生活を成り立たせ、支えている。これは、もう「被害者」ではない。もう、暴力団を支えている人間だ。だから、その関係をやめなければ、お前らも逮捕するぞ、と言う考えだ。
 ここで店や、一般人の不安がある。「払ったら私たちも逮捕されます。だから、もう払えません」と「みかじめ料」を断りやすくなったと言う人もいる。生花、おしぼり… などを暴力団が押しつけるのも断れる。それをやりやすくなったと言う人もいる。しかし、店側は不安だ。「それに替わって警察が全部、守ってくれるのだろうか」と。「暴力団の恐怖」と「警察の恐怖」と、どちらかを選択しろと言われてるようだ。
 つまり、「命をかけて暴力団と闘え!」と民間人に強制してるのだ。少しでも暴力団の脅しに屈したら、お前らも逮捕する! と言っている。暴力団を取り締まるのではなく、「弱い民間人」をターゲットにし、脅しているようにも見える。

 元警視庁刑事の北芝健さんに聞いてみた。
「その傾向はありますね。現場の警察官も皆、混乱してますよ」と言う。警察庁長官などのトップが独断で考え、やろうとしているのだと言う。日本の暴力団はアメリカやヨーロッパと違い、マフィア化していない。マフィアなら、公然と看板を掲げて事務所を持つ事はないし、実話週刊誌に顔を出して喋ることもない。あくまでも地下に潜っているし、だからこそ怖い。
 その点、日本はヤクザにしろ、暴走族、右翼、左翼にしろ、「顔」が見える。毎週、彼らを取り上げる雑誌もあって、売れている。警察トップにとっては、その現象は苦々しい思いだろうが、現場の警察官にしては取り締まりがやりやすい。何せ、ヤクザは事務所を持ち、堂々と生きている。そこを監視し、取り締まっていればよかった。1992年の暴対法の時は、その監視、取り締まりを、もっともっと強化しよう、というものだった。それによって民間人を守ろうとした。
 ところが、ヤクザ、暴力団は減らない。彼らに金を出し、持ち上げる雑誌もある。こいつらがいるから暴力団は生きているのだ。と、警察トップは考えた。そして、ターゲットを民間人に変えた。そんな気がしてならない。
 北芝健氏は言う。「ヤクザ、暴力団が全員地下に潜って、マフィア化したら、もっと大変なことになりますよ。それに外国マフィアも横行するし…」と。「俺達警察は暴力団と命をかけて闘っている。だから民間人も協力してほしい」と言うのなら分かる。そうではなく、「お前らのせいで暴力団が生きのびている。だからまず、お前らを逮捕する」と言っているようだ。そんなことはないのだろうが、こうした民間人の不安を払拭してほしい。キチンと線引きを示し、警察の決意・覚悟を見せてほしい。

 それと、疑問に思うことがある。1992年の暴対法の時は、大きな反対運動が起こった。「これは暴力団つぶしと言いながら、全ての団体、つまり左翼や右翼の弾圧も狙っている」と。テレビ討論会でも激論が闘わされた。現役のヤクザの幹部もテレビに出て、「我々は暴力団ではない。任侠道を実践する人間だ」と言っていた。遠藤誠弁護士や右翼の野村秋介さんなどが中心になり、「暴対法反対」の集会やデモも行われた。野村さんに言われて僕も出た。ヤクザの妻たちのデモもあった。「極道の妻たちのデモ」だ。「私たちは暴力団ではない!」「ヤクザも人間だ。生きる権利がある!」と書かれたプラカードを持ってデモをした。「極妻デモ」も、僕らのデモも、当時は「マンガだ!」と馬鹿にされた。しかし、雑誌、テレビも含め、論議する自由はあった。言論は自由だった。ところが今は、そうした自由は全くない。この条例を批判したら、「暴力団に味方するのか!」と怒鳴られる。あるいは「利益を提供した」と難癖をつけられて捕まるかもしれない。そんな不安がある。政治家だって反対しない。1992年の時よりもずっと、言論は不自由になった。又、警察を刺激して、目を付けられるのが怖いのだ。
 「正論」は大切だ。それと共に、それに反対し、疑問を持つ「異論」「暴論」もあってこその言論の自由だと思う。それが無くなり、窮屈になってきたような気がする。<a href="http://blog.with2.net/link.php?1621422:4324 " title="生き方 ブログランキングへ"><img src="http://image.with2.net/img/banner/c/banner_1/br_c_4324_1.gif " width="110" height="31" border="0" /></a><br /><a href="http://blog.with2.net/link.php?1621422:4324 " style="font-size:12px;">生き方 ブログランキングへ</a>

イラン人の元暴力団会長を逮捕 倉庫に拳銃隠し持つ倉庫に拳銃と実弾を隠し持っていたとして、警視庁組対2課と竹の塚署は、銃刀法違反の疑い(加重所持)で、イラン国籍でさいたま市緑区三室、元住吉会系暴力団会長、アムロラー・ナーセリー容疑者(59)=恐喝容疑で逮捕後、処分保留で釈放=を再逮捕した。同課によると「倉庫は借りたが、銃と実弾は知らない」と容疑を否認しているという。

 逮捕容疑は2月24日、さいたま市緑区の自宅近くの倉庫にブラジル製の回転式拳銃1丁と実弾23発を隠し持っていたとしている。

 同課は同月、同じ組の元組員の40代男性からカネを脅し取ろうとしたなどとして、恐喝容疑でナーセリー容疑者を逮捕。自宅や他人名義の倉庫を家宅捜索し、拳銃などを発見した。拳銃はプラスチック製の箱に入れられ、使用できる状態だったが、使われた痕跡はなかった。

 同課によると、ナーセリー容疑者は昭和61年に入国後、日本人女性と結婚し永住者資格を取得していた。同課はナーセリー容疑者が暴力団の会長になった経緯や拳銃の入手ルートなどを調べている。


厚木・知人男性に暴行、傷害致死で男起訴-横浜地検支部/神奈川
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 横浜地検小田原支部は14日、傷害致死罪で、愛川町、無職細川英治容疑者(36)を起訴した。

 起訴状などによると、細川被告は2月24日未明、厚木市岡田の指定暴力団稲川会系組事務所で同市の知人男性(34)の顔や腕、背中などを木刀などで多数回殴り、死亡させた、とされる。

 県警暴力団対策課と厚木署は同日、殺人の疑いで同被告を逮捕していた。


覚醒剤密輸:組関係者を逮捕/福岡
 福岡県警は14日、カンボジアから覚醒剤約1キロを密輸したとして、住所不詳の指定暴力団工藤会(北九州市)関係者、瓜生隆吉容疑者(52)を覚せい剤取締法違反容疑で逮捕した。県警は認否を明らかにしていない。

 逮捕容疑は、工藤会系組幹部2人=同法違反の罪で服役中=と共謀し、2011年6月、カンボジアから覚醒剤約950グラムを貨物内のズボンに隠し発送し、関西国際空港から輸入したとしている。瓜生容疑者は当時、カンボジアに渡っており、発送役とみている。いったん帰国後同月下旬に韓国に出国し、県警が翌7月指名手配していた。14日に韓国から成田空港に帰国したところを逮捕した。


前橋4人射殺:指示役の組会長、死刑確定へ 最高裁
 前橋市のスナックで2003年、客ら4人が死亡した拳銃乱射事件などで殺人や殺人未遂の罪に問われ、1、2審で死刑とされた指定暴力団住吉会系矢野睦会元会長、矢野治被告(65)の上告審判決で、最高裁第2小法廷(鬼丸かおる裁判長)は14日、被告側の上告を棄却した。1、2審の死刑判決が確定する。

 小法廷は「一般人を巻き込む危険性も意に介さず、冷酷で残虐。実行行為はしていないが組員に指示を与えた首謀者」と指摘した。

 1、2審判決によると、矢野被告は元幹部の小日向将人(こひなた・まさと)(44)と山田健一郎(47)の両死刑囚に、対立していた元暴力団組長の殺害を指示。03年1月、客3人と警護役の元組員を射殺し、元組長ら2人に重傷を負わせた。


山口組幹部射殺:16年間逃亡の男に無期懲役 神戸地裁
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 1997年に神戸市のホテルで、指定暴力団山口組ナンバー2だった宅見勝・宅見組組長(当時61歳)と、居合わせた歯科医の男性(同69歳)が射殺された事件で、殺人罪などに問われた元指定暴力団中野会(解散)系組員、財津晴敏被告(57)の裁判員裁判で、神戸地裁(宮崎英一裁判長)は14日、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。

 財津被告は16年間逃亡。昨年6月、潜伏していた埼玉県狭山市のアパートで発見された。

 判決などによると、財津被告は97年8月、神戸市中央区のJR新神戸駅近くのホテルで、元組員らと共謀し、宅見組長を拳銃で射殺。隣のテーブルにいた男性も流れ弾で殺害した。

  任俠道とは
 任俠道とは、任俠界を歩む人の道を指し、況や俠客道をいいます。

今や俠客と申しましてもピンとこないと思いますが、侠客とは「弱気を助け、強気をくじく者 (大辞林参照)」という事で、つまりは弱者達の為に己を顧みず、強者に立ち向かっていく精神を貫く人の道だと考えます。
 任俠百年史などに詳しく記載されている事実から紐解くと、古くは「古事記」の一文にある、天照大神の弟、スサノオノミコトの八岐大蛇退治などは任俠だとしている。

つまり、町娘の命を助ける為に八岐大蛇に立ち向かっていった事が、正を糺し悪を挫く仁俠の精神なのだ。
 中国の司馬遷著「史記」の遊俠列伝に次の一文を見る事ができる。

『遊俠は、その行為が正義の道に悖る事はあるが、自分の発言は必ず守り、その行いは果で、一度約束したことは、己の生命の危険など顧みずに果たそうとする。しかも、その才能をほこらず、その特にほこる事を恥としているから、称讃すべき人物が多い。世間では、俠客というものを理解せず、朱家(魯)や郭解(軹)らを、暴豪の徒と同じように扱うから、情けない。秦より以前の民間の侠客は埋没してしまっている。誠に残念なことである。』


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