日本の伝統文化 任侠道 その2 新門辰五郎 | 徹王のブログ

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「町火消しの頭台と新門辰五郎


幡随院長兵衛の死後、時流は急速に奴達の取り締まりを強化し、明暦元年(1659年)11月の中山勘解由〈鬼勘解由〉の行った博徒狩りを皮切りに、奴達は厳しく処断されて行く。

 衰退する奴達はやがて解体へと追い込まれるのだが、それが決定的と成ったのが、貞享三年(1683年)9月27日の大刈込みであるという。

大刈込みは一度に200余名を追捕し、その魁首(主だった者)111名を斬罪とした。

町奴は斬罪という残酷史で町から姿を消す事となる。

(『仁侠百年史』参照)


旗本奴・町奴は先に説明したとおりであるが、加えておくと町奴は元々その大多数が戦国期の浪人者やその血筋の者、年貢未進で田を捨てた農民、借金の利息に追われる者、農民、町人の三男坊以下で厄介者扱いされる者達など、幕政の犠牲になり社会組織から疎外された者でしめて居たという現実があるから、彼らの持つその反権力、反幕的思考がそのまま一切消えてなくなる筈もないと思うのは至極当たり前だと想うのだが如何なものか…。


(猪野健治/著「やくざと日本人」)によれば、

『旗本奴が自滅の道をたどったのに比し、町奴は、〈都市の勃興に伴う市民権発動の影響〉白柳秀湖『親分子分』侠客編〉の下に頭台しただけに、被支配層の反権力的風潮に支えられて、しばしば行われた奴狩りにもかかわらず容易には衰退しなかった。

それが衰退に至ったのは、町奴の初期の反権力的俠気がしだいにうすれ、無頼化した事もさることながら、小普請の義務が金納制に改められ(元禄二年1689年)、従来の形で口入れ稼業が成り立たなくなった為である。この幕府の知能的な政策によって、町奴の時代は、終わりを告げる。』と、ある。

私は後者の方が信憑性が有ると支持したい。


いずれにしても、変わりゆく時代の流れに翻弄されて、奴という組織が消滅したという事実に誤りはないようだ。

やがて奴に代わって、民衆の前衛と成りうる者として町火消しの集団へと変化して行く。

発展して行く江戸の町の要請に応じて台頭した故に、江戸中期以後の親分子分集団の主流となった…と、猪野健治氏は書いている。

町火消しは鳶を主流に建設関係の人足を生業としながら、幕府より命じられた「江戸の町を火災から守る」という使命を担う運びと成り、一種の市民兵的存在として被支配階級の抵抗の前衛と成っていったという。

多くは旦那衆を持ち、経費は一切町費で賄われたらしく、町人の人気を集めて居たという事がよくわかる。

当時の江戸ではとにかく火事は一大事であり「地震、雷、火事、親父」といった言葉が残っているように、庶民の脅威であったことは論をまたない。

そんな脅威の火事場という一種の戦場に、組頭の命令一下、命をも顧みず飛び込んで行く粋な俠気を民衆は愛し、その人気を集めたのであろう。

現代の様な装備もなく、素肌に近い姿で、水をかぶって飛び込み火消しに当たるのであるから、大火ともなると死人が続出した事は想像に明るい。

任俠道をそのまま絵にしたような行動に、人間としての魅力を感じ、人気が上がらない訳が無いのである。

組頭以下、組纏いを先頭に一蓮托生、生死を共にした運命共同体的生活から、自然と親分子分、兄弟分の情義が生まれたというのもよく理解できる。


『本邦俠客の研究』という文献の一文からそれがよくわかる。

『彼等の生活が斯如きものであったから、火消頭と鳶もとの間には、自然親分子分の関係が結果するに至り、常に困苦を共にし、生死を共にするの情義が生まれた……組合中の者は常に信義を重んじ、廉恥を尚とんで、他の組々に対し自己所属の組の纏いを汚さざらん事を心掛けたから、その団結は愈々固く、また武家方火消しに対しては、町方の面目を維持することに専念した。』と、ある。

こうして成り立った町火消しの組織が、仁俠団体の原型と成った事が見てとれる。


享保4年(1719年)4月 町奉行大岡越前守忠相が、一番組から10番組に、〈い・ろ・は〉48組を分け、町火消しの形態が築かれたという。

町火消しはその人気から、様々な形で町人に頼られ、自然と街の治安維持に貢献する事となり、その組々が担う地域の揉めごと、喧嘩の仲裁、商家にきてユスリ・タカリを働く無頼漢を追っ払う、などの事までが彼らの仕事の一部に組み込まれて行ったという。


さて、町火消しの成り立ちについて記述したが、町火消しとくれば、御存じ歴史にその名を残す、新門辰五郎の登場である。

大前田栄五郎、江戸屋虎五郎と並んで、「関東の三五朗」と呼ばれた、俠客きっての俠客である。

新門辰五郎は寛政十二年(1800年)に下谷山崎町の飾り職人の長男として生まれ、本名を中村金太郎といった。
火消しになる切っ掛けは、煙管職人であった父の死であったようだ。
辰五郎の父は、自分の留守中に弟子が火事を起こしてしまった事から、「世間に申し訳ない」と火の中へ身投げし自殺してしまったそうだ。
 金太郎(辰五郎)は16歳の時、浅草金竜寺の新門の衛士で『浅草十番組『を組』の頭であった、町田仁右衛門の下に弟子入りをしたという。
町田氏は、亡き息子の名前「辰五郎」を金太郎に与え、跡目としてすぐに期待されたという。

18歳にして町田氏に養子に出され、「新門」

と俗称したいわれは、浅草寺・伝法院の新しい通用門の番人を任された事からなのだという。

ところでこの辰五郎は喧嘩好きで、めっぽう腕っ節が強かったらしい。

当時十番組頭取であった町田氏に若くして見込まれたというから、度胸もなみの度量では無かったのだろうという事が伺われる。


 辰五郎が火消しとして最初に名を上げたのが、

文政四年(1821年)浅草花川戸の火事。

『を組』は一番に火事場へ駆けつけ、纏を揚げたのだが、遅れてやってきた立花将監お抱え火消しの横やりに会い、消し口の取り合いから、相手の纏い持ちを屋根の上から蹴落として大怪我を負わせ、火事そっちのけで大喧嘩となった。

 大勢の怪我人を出した事で責任を感じた辰五郎は、火が鎮火した後、けじめをつける為に将監屋敷へと単身で出向き、

「下手人は俺だ。どうなと勝手にしろ。」

と、啖呵を切ったという。

将監は辰五郎のその気概に押されたのか、はたまたその心意気がかわれたのか、実の処は分からないが、辰五郎はなにも手を下されず、何の責任も問われずに帰されたという。

この話が江戸中に広まり、「を組の新門辰五郎」の名を、一躍世間に知らしめる運びとなったのだというのは信憑性が有る。

 つづいて文政七年(1824年)吉原の火事。

この時の喧嘩は、多くの組を巻き込んだ江戸最大の喧嘩となったらしいが、その際も辰五郎は喧嘩を仲裁し、またまたさらに男を上げ、多くの鳶仲間から信頼されるようになったのだという。

 それから天保五年(1834年)7月芝麻布桜田町の武家屋敷が全焼した。

この大火でも大喧嘩が勃発する。

消し口の取り合いから、「ろ組」(二番組)と「と組」(十番組)がわたりあい、辰五郎配下の「を組」の梯子持ちの一人が、手元の狂った鳶口を脳天に受け重傷を負った。

これを見た「を組」の鳶はいきり立ち、あわやこれは手の着け様もない大乱闘となろうとする図となったが、それを見て取った辰五郎がその渦中に飛び込み、

「この喧嘩は辰五郎があずかった」

と割って入った。

丁度そこへ注進によって南町奉行池田播磨守が駆け付け、

「辰五郎、この仲裁、その方に任せたぞ。」

と、馬首を帰して引き揚げて行ったらしく、辰五郎の仲裁で喧嘩は丸く収まり、下手人を出さずに済んだという。

こうした事実を見ると、この時すでに新門辰五郎は、お上からも一目置かれる俠客として名が通って居たに違いない事が解る。

以上の事は、『江戸火消し年代記』に記載の史実であるが、辰五郎が如何に統率力に優れ、義俠心に富んでいたかが見てとれる。


それから数年後、町田氏に跡目と見込まれていた辰五郎は、町田氏の娘と結婚し、辰五郎24歳にして「を組」の組頭となり、十番組の頭取にまで収まったという。


余談であるがこの町火消しの組頭は、世襲かもしくは娘に身内から統率力に優れた者を選び、婿養子に迎える事で代目を継承させたようである。

つまりは、先に記載の通り、実子を亡くした町田氏は、辰五郎にその影を見て居たのか、辰五郎という名前を与えた時から、娘婿として代目を継がせようという考えであったことは間違いないだろう。


そんな順風満帆な辰五郎にも、思い掛けない災難が降りかかる事となる。

 弘化二年(1845年)正月二十四日、江戸の大火事が起きる。

火元は青山権田原付近で、西北の烈風に煽られて燃え広がり、大名屋敷150ヶ所、旗本屋敷285ヶ所、寺院187カ所、灰になった町は126町におよんだ。

この大火で武家火消し、町火消しの全員が出勤した。

辰五郎率いる十番組は芝三田の久留米藩邸付近へ出勤し、町家への類焼を防ぐため、破壊消防に取り掛かったところ、有馬頼永の率いる武家火消しが出張ってきて、なんと「を組」の纏い持ちを突き飛ばし火消し口を奪ってしまった。

当然そんな理不尽が通る筈もなく、喧嘩に発展したのは言うまでもない。

辰五郎ひきいる「を組」を中心とした十番組は、総勢950人、いずれも血気盛んな若者達ぞろいで、双方入り乱れて大喧嘩へと発展してしまう。しかし「勇将の下に弱卒なし・・・」

と、言うように、辰五郎率いる十番組は、大名お抱えの有馬勢(武家火消し)と渡り合い、一歩も引かなかったという。

結果は、有馬方に18人に対し、十番組は7人の怪我ですみ、結果は十番組の大勝となった。

しかしそれでは「御正道がまかり通らぬ」という事となり、辰五郎は、この喧嘩の責任者としての責任を取らされ、江戸十里外に追放とされてしまうのである。

それでもそこは新門辰五郎、夜になると秘かに愛妾宅にやって来ては、あれこれと采配を振るったらしく、それが役人の耳に入って、再逮捕される羽目となった。

 辰五郎は事実を否認したので、酷い拷問を受けたが一切口を割らず、手を焼いた奉行所は、二人の愛妾を証人に呼び対決させたが、それでも辰五郎は、

「この女はどこの女衆か存じません。私は一度も会ったことも御座いません。」

と、突っぱねたという。

愛妾の一人が、

「親分、どうかまげて白状して下さい。罪は私達二人で引き受けますから」と、泣き口説くと、

「黙れ、ばいた奴、お前達は何の恨みが有って、この俺を罪に落そうとするのか」

と、叱り飛ばしたという。

(田村栄太郎『やくざの生活』参照)


辰五郎は愛妾達を巻き込んで、その者に「罪人としての苦労を味あわせる訳にはいけない…」

といった一心での行為であったと想像できる。

しかしてその結果は、辰五郎は佃島へと送られる羽目となった。


 佃島とは、寛政二年(1790年)2月に石川大隅守の屋敷裏の湿地16,000余坪を埋め立てて造られた人足寄場で、石川島人足寄場とも呼ばれた軽い科人の懲役所である。


しかし辰五郎、実に幸運の持ち主であった。

弘化三年(1846年)1月15日に江戸の大火が起き、それは小石川から霊岸島まで焼け抜け、住宅その他13,600戸を焼失するという凄まじいものであったというのだが、その火は辰五郎が収監されている佃島迄襲い、辰五郎は持ち前の俠気と、火消しの頭取としての経験を生かし、囚人達を指揮して消火に当たった為、その功を御上に認められた事によってご赦免となるのである。

時代の英雄とは得てしてこういうもので、生れついた幸運を備えていると言うが誠か否か…。


 ともあれこうした一連の事件で一躍有名を馳せ、江戸市中はおろか、方々の業界人に迄名前が知れ渡ったのだという。

辰五郎は、「興行師はもとより、浅草観音参詣客相手の露天商からカスリを上げ、博打も打った為に、的屋・博徒の両方から畏怖された」…と、ある。

辰五郎は、「来る者は拒まず

といった考えで、鳶人足はもとより、ごろつき、罪人、寄場帰りの者、流れ者など、区別なく抱えた為、その子分は「辰五郎親分の為なら…」

と、いう命知らずの子分が2000人も、3000人もいたというが、それも至極信憑性のある話である。

中には行状の悪い者もしばしば居り、事件を引き起こしたりしている。


 これも余談ではあるが、当時の大建造物といえば、興行の劇場だったというが、その劇場とは町の中央にあり、多くの観客が集まるので火災が起こりやすく、劇場は町方だから、出火ともなれば町火消しの世話になる。加えて建築を手掛けるのは大抵が鳶を中心とした建築関係の仕事を請け負う職人であるから、つまりは町火消しが担当する事と成る。

そうした背景が有って、劇場主や興行主は、興行の度に、地元の鳶頭の処へと付渡り(包み金)を届けるようになったらしい。

それが相撲、寄席、仮設興行などありとあらゆる興行まで広がり、的屋でいう「ショバ代」「ゴミ銭」、「博打のカスリ」、なども一体化、混合化し、町火消しの収入源の中でも相当のウエイトを占めるに至ったという事である。

町火消し(鳶人足)は、それに報いるに、防火を兼ねて人を出し、場内整理、客制限、警備などを引き受ける事と成ったという。

(『やくざと日本人』猪野健治 参照)


こうして幕末の鳶人足・町火消しを代表する親分・新門(町田)辰五郎は、興行師はもとより、テキヤ、博徒の双方から畏怖される大親分と成って行ったのだ。

辰五郎は支援者にも恵まれていた。これも偏に人間新門辰五郎の人徳というものなのだろう。

辰五郎は、上野東叡山の管轄下にあった浅草寺の門番方を、上野大慈院の義寛より任される。

門番方というと錯覚されがちであるが、それは端役などではなく、要は浅草寺の風紀衛生を取り仕切るだけの事で無く、境内の一切の利権、つまりは露店や仮設興行、見世物などの総てを任せられたのである。

これに付随して、人ごみを縄張りとするスリや街頭易者などからも付け届けが届くといったように、莫大な資金源と成った事は言うまでもない。なんでも、こうして集まるゴミ銭を入れてあった押入れの床が抜けた程にゴミ銭が集まったという。

藤口透吾によれば、この上野大慈院の義寛が、後の十五代将軍となる徳川慶喜に結びつけたのだという。

辰五郎の娘は徳川慶喜の愛妾に成っている。

その故あってか、幕府の統制が緩み、時流の流れから叛乱の狼煙が上がる頃になると、慶喜は、辰五郎を頼るようになり、様々な文献を見るにその間柄は旗本並みに親密である。

辰五郎は、慶喜の命令通り良く働いたらしいが、慶喜の義父である事を自己の繁栄のため活用したことも事実であるようだ。


この辺から幕府は加速して時代の波にのまれて行くのだが、余りに徳川慶喜に近かった新門辰五郎も、そうした時代の波に翻弄されて行く。
 文久三年(1863年)、十四代将軍徳川家茂が京都警備の必要から上洛する事と成り、二条城に入城するにあたり徳川慶喜も同行した。その際、慶喜の警護として辰五郎は子分300人を従え一行に加わったというから、本物の佐幕派だったことが伺える。

京都につくと、二条城の防火を任され警備をしたというから面白い。

 家茂が休止して後、十五代将軍徳川慶喜が誕生する訳だが、この最後の将軍様が、偉かったのか、はたまた愚鈍であったのかの評価はさまざまにしろ、いずれにしても鳥羽伏見の戦い以後、幕軍が戦いに敗れた事を聞いた徳川慶喜は、敵前逃亡といったら聞こえも悪いが、大阪城からそそくさと開陽艦(幕府の軍艦)に周囲の主だった者と乗り込み、撤退の準備に取り掛かったらしい。

しかしそのさい幕軍は、家康公から代々受け継がれてきた由緒ある徳川の馬印(大金扇の馬印)を大阪城に忘れてしまい、その馬印を取ってくるよう辰五郎に命じたという。

辰五郎は二つ返事でそれを請け負い、見事に大阪城から奪還するに成功して戻ったが、その時すでに遅く、開陽艦は出発してしまっていた為、あえなく陸路、東海道を上って追っかけたという事である。

また慶喜が大政奉還して、水戸へ謹慎する事と成ったときは、御用金の二万両は辰五郎が輸送した。と、田村栄太郎氏は書いている。


『氷川情話』などを見ると辰五郎は、幕末の三舟で名高い勝海舟との繋がりもあったらしく、

「新門の辰はもののわかった男だ。こういう男は金や威光では動かず、意地で行動する」

などと記載してある。

 勝海舟と西郷隆盛との会談が決裂した場合、江戸市中に放火する役目を仰せつかっていたのが辰五郎らだったという説もあるが、その辺は定かではない。

史実を見ると、

慶応四年(1868年)一月、朝廷は鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜に対し、徳川征討令を発し、薩摩・長州の藩兵を主流とする五万の征討軍は直ちに江戸に向かった。

これを聞いた慶喜は、即座に大政奉還して上野東叡山大慈院に蟄居し、恭順謝罪書を御上に提出した上、江戸城を征討軍に引き渡したが、それをよしとしない旧幕臣配下の彰義隊五千人が、上野の山にこもり最後の抵抗を試みた。

勝海舟は、両軍の戦火で江戸市中が火の海と化すことを懸念し、町火消し四十八組に出動態勢を取らせる一方、親分衆に働きかけて、江戸市中の警備を要請したとなっている。

辰五郎はこの時、「を組」の二百数十人を引き連れて、征討軍の放火で燃え上がる東叡山に駆け上り消火にあたっている。

芝居などでは、これが辰五郎が官軍を向こうにまわしての、一世一代の大喧嘩などとしているが、幾ら度胸が据わっていたとしても、飛んでくる大砲の弾に鳶口一つでかなう筈もなく、命からがら逃げのびたと言う事は想像の出来るところである。

ただ、戊辰戦争に際して、江戸に火災・盗賊の横行等が最小限に止められたのについては、町火消し四十八組の統制のとれた市民兵的行動が大きく寄与していた事は確かだと見られる。

勝は官軍の江戸進撃の前夜、手薄になった江戸の治安を、町火消しとごろつきの親分たちに頼みまわったが、親分たちは勝の申し入れを

「へぇ、わかりやした。この顔が入用でしたら何時でも御用に立てます。」

と、二つ返事で引き受けたという。

勝は、官軍江戸入城後、無政府状態であったにもかかわらず、放火や盗賊の横行が少なかったのは、彼らの力による処が大きいと評価している。

明治二年(1869年)九月、徳川慶喜は謹慎を解かれ、水戸から静岡へと移った。この際も辰五郎は慶喜に同行している。


静岡では、勝と共に幕末の三舟の一人といわれ、勝海舟の腹心であり、西郷隆盛と直談判し江戸城を無血開城へと導いた立役者の一人、山岡鉄舟がおり、また、鉄舟を師事していた清水港の親分、ご存じ清水次郎長ともこのとき出会い、共に親睦を深めた。

辰五郎と次郎長はその後、兄弟分の契りを交わしたという。

勝の腹心・山岡鉄舟を、西郷隆盛との江戸城無血開城への会談に向かう際、護衛をしたひとりが次郎長だった。


明治二年(1871年)、東京府に消防庁が設立され、町火消しは従来の町抱えから、府の直轄になったことなどから、慶喜の警護を清水次郎長(当時50歳)に託し、浅草に戻る。


明治八年(1875)九月十九日、浅草馬道の自宅で病没する。


新門辰五郎 享年70歳
「町火消しの頭台と新門辰五郎」


幡随院長兵衛の死後、時流は急速に奴達の取り締まりを強化し、明暦元年(1659年)11月の中山勘解由〈鬼勘解由〉の行った博徒狩りを皮切りに、奴達は厳しく処断されて行く。

 衰退する奴達はやがて解体へと追い込まれるのだが、それが決定的と成ったのが、貞享三年(1683年)9月27日の大刈込みであるという。

大刈込みは一度に200余名を追捕し、その魁首(主だった者)111名を斬罪とした。

町奴は斬罪という残酷史で町から姿を消す事となる。

(『仁侠百年史』参照)


旗本奴・町奴は先に説明したとおりであるが、加えておくと町奴は元々その大多数が戦国期の浪人者やその血筋の者、年貢未進で田を捨てた農民、借金の利息に追われる者、農民、町人の三男坊以下で厄介者扱いされる者達など、幕政の犠牲になり社会組織から疎外された者でしめて居たという現実があるから、彼らの持つその反権力、反幕的思考がそのまま一切消えてなくなる筈もないと思うのは至極当たり前だと想うのだが如何なものか…。


(猪野健治/著「やくざと日本人」)によれば、

『旗本奴が自滅の道をたどったのに比し、町奴は、〈都市の勃興に伴う市民権発動の影響〉白柳秀湖『親分子分』侠客編〉の下に頭台しただけに、被支配層の反権力的風潮に支えられて、しばしば行われた奴狩りにもかかわらず容易には衰退しなかった。

それが衰退に至ったのは、町奴の初期の反権力的俠気がしだいにうすれ、無頼化した事もさることながら、小普請の義務が金納制に改められ(元禄二年1689年)、従来の形で口入れ稼業が成り立たなくなった為である。この幕府の知能的な政策によって、町奴の時代は、終わりを告げる。』と、ある。

私は後者の方が信憑性が有ると支持したい。


いずれにしても、変わりゆく時代の流れに翻弄されて、奴という組織が消滅したという事実に誤りはないようだ。

やがて奴に代わって、民衆の前衛と成りうる者として町火消しの集団へと変化して行く。

発展して行く江戸の町の要請に応じて台頭した故に、江戸中期以後の親分子分集団の主流となった…と、猪野健治氏は書いている。

町火消しは鳶を主流に建設関係の人足を生業としながら、幕府より命じられた「江戸の町を火災から守る」という使命を担う運びと成り、一種の市民兵的存在として被支配階級の抵抗の前衛と成っていったという。

多くは旦那衆を持ち、経費は一切町費で賄われたらしく、町人の人気を集めて居たという事がよくわかる。

当時の江戸ではとにかく火事は一大事であり「地震、雷、火事、親父」といった言葉が残っているように、庶民の脅威であったことは論をまたない。

そんな脅威の火事場という一種の戦場に、組頭の命令一下、命をも顧みず飛び込んで行く粋な俠気を民衆は愛し、その人気を集めたのであろう。

現代の様な装備もなく、素肌に近い姿で、水をかぶって飛び込み火消しに当たるのであるから、大火ともなると死人が続出した事は想像に明るい。

任俠道をそのまま絵にしたような行動に、人間としての魅力を感じ、人気が上がらない訳が無いのである。

組頭以下、組纏いを先頭に一蓮托生、生死を共にした運命共同体的生活から、自然と親分子分、兄弟分の情義が生まれたというのもよく理解できる。


『本邦俠客の研究』という文献の一文からそれがよくわかる。

『彼等の生活が斯如きものであったから、火消頭と鳶もとの間には、自然親分子分の関係が結果するに至り、常に困苦を共にし、生死を共にするの情義が生まれた……組合中の者は常に信義を重んじ、廉恥を尚とんで、他の組々に対し自己所属の組の纏いを汚さざらん事を心掛けたから、その団結は愈々固く、また武家方火消しに対しては、町方の面目を維持することに専念した。』と、ある。

こうして成り立った町火消しの組織が、仁俠団体の原型と成った事が見てとれる。


享保4年(1719年)4月 町奉行大岡越前守忠相が、一番組から10番組に、〈い・ろ・は〉48組を分け、町火消しの形態が築かれたという。

町火消しはその人気から、様々な形で町人に頼られ、自然と街の治安維持に貢献する事となり、その組々が担う地域の揉めごと、喧嘩の仲裁、商家にきてユスリ・タカリを働く無頼漢を追っ払う、などの事までが彼らの仕事の一部に組み込まれて行ったという。


さて、町火消しの成り立ちについて記述したが、町火消しとくれば、御存じ歴史にその名を残す、新門辰五郎の登場である。

大前田栄五郎、江戸屋虎五郎と並んで、「関東の三五朗」と呼ばれた、俠客きっての俠客である。

新門辰五郎は寛政十二年(1800年)に下谷山崎町の飾り職人の長男として生まれ、本名を中村金太郎といった。
火消しになる切っ掛けは、煙管職人であった父の死であったようだ。
辰五郎の父は、自分の留守中に弟子が火事を起こしてしまった事から、「世間に申し訳ない」と火の中へ身投げし自殺してしまったそうだ。
 金太郎(辰五郎)は16歳の時、浅草金竜寺の新門の衛士で『浅草十番組『を組』の頭であった、町田仁右衛門の下に弟子入りをしたという。
町田氏は、亡き息子の名前「辰五郎」を金太郎に与え、跡目としてすぐに期待されたという。

18歳にして町田氏に養子に出され、「新門」

と俗称したいわれは、浅草寺・伝法院の新しい通用門の番人を任された事からなのだという。

ところでこの辰五郎は喧嘩好きで、めっぽう腕っ節が強かったらしい。

当時十番組頭取であった町田氏に若くして見込まれたというから、度胸もなみの度量では無かったのだろうという事が伺われる。


 辰五郎が火消しとして最初に名を上げたのが、

文政四年(1821年)浅草花川戸の火事。

『を組』は一番に火事場へ駆けつけ、纏を揚げたのだが、遅れてやってきた立花将監お抱え火消しの横やりに会い、消し口の取り合いから、相手の纏い持ちを屋根の上から蹴落として大怪我を負わせ、火事そっちのけで大喧嘩となった。

 大勢の怪我人を出した事で責任を感じた辰五郎は、火が鎮火した後、けじめをつける為に将監屋敷へと単身で出向き、

「下手人は俺だ。どうなと勝手にしろ。」

と、啖呵を切ったという。

将監は辰五郎のその気概に押されたのか、はたまたその心意気がかわれたのか、実の処は分からないが、辰五郎はなにも手を下されず、何の責任も問われずに帰されたという。

この話が江戸中に広まり、「を組の新門辰五郎」の名を、一躍世間に知らしめる運びとなったのだというのは信憑性が有る。

 つづいて文政七年(1824年)吉原の火事。

この時の喧嘩は、多くの組を巻き込んだ江戸最大の喧嘩となったらしいが、その際も辰五郎は喧嘩を仲裁し、またまたさらに男を上げ、多くの鳶仲間から信頼されるようになったのだという。

 それから天保五年(1834年)7月芝麻布桜田町の武家屋敷が全焼した。

この大火でも大喧嘩が勃発する。

消し口の取り合いから、「ろ組」(二番組)と「と組」(十番組)がわたりあい、辰五郎配下の「を組」の梯子持ちの一人が、手元の狂った鳶口を脳天に受け重傷を負った。

これを見た「を組」の鳶はいきり立ち、あわやこれは手の着け様もない大乱闘となろうとする図となったが、それを見て取った辰五郎がその渦中に飛び込み、

「この喧嘩は辰五郎があずかった」

と割って入った。

丁度そこへ注進によって南町奉行池田播磨守が駆け付け、

「辰五郎、この仲裁、その方に任せたぞ。」

と、馬首を帰して引き揚げて行ったらしく、辰五郎の仲裁で喧嘩は丸く収まり、下手人を出さずに済んだという。

こうした事実を見ると、この時すでに新門辰五郎は、お上からも一目置かれる俠客として名が通って居たに違いない事が解る。

以上の事は、『江戸火消し年代記』に記載の史実であるが、辰五郎が如何に統率力に優れ、義俠心に富んでいたかが見てとれる。


それから数年後、町田氏に跡目と見込まれていた辰五郎は、町田氏の娘と結婚し、辰五郎24歳にして「を組」の組頭となり、十番組の頭取にまで収まったという。


余談であるがこの町火消しの組頭は、世襲かもしくは娘に身内から統率力に優れた者を選び、婿養子に迎える事で代目を継承させたようである。

つまりは、先に記載の通り、実子を亡くした町田氏は、辰五郎にその影を見て居たのか、辰五郎という名前を与えた時から、娘婿として代目を継がせようという考えであったことは間違いないだろう。


そんな順風満帆な辰五郎にも、思い掛けない災難が降りかかる事となる。

 弘化二年(1845年)正月二十四日、江戸の大火事が起きる。

火元は青山権田原付近で、西北の烈風に煽られて燃え広がり、大名屋敷150ヶ所、旗本屋敷285ヶ所、寺院187カ所、灰になった町は126町におよんだ。

この大火で武家火消し、町火消しの全員が出勤した。

辰五郎率いる十番組は芝三田の久留米藩邸付近へ出勤し、町家への類焼を防ぐため、破壊消防に取り掛かったところ、有馬頼永の率いる武家火消しが出張ってきて、なんと「を組」の纏い持ちを突き飛ばし火消し口を奪ってしまった。

当然そんな理不尽が通る筈もなく、喧嘩に発展したのは言うまでもない。

辰五郎ひきいる「を組」を中心とした十番組は、総勢950人、いずれも血気盛んな若者達ぞろいで、双方入り乱れて大喧嘩へと発展してしまう。しかし「勇将の下に弱卒なし・・・」

と、言うように、辰五郎率いる十番組は、大名お抱えの有馬勢(武家火消し)と渡り合い、一歩も引かなかったという。

結果は、有馬方に18人に対し、十番組は7人の怪我ですみ、結果は十番組の大勝となった。

しかしそれでは「御正道がまかり通らぬ」という事となり、辰五郎は、この喧嘩の責任者としての責任を取らされ、江戸十里外に追放とされてしまうのである。

それでもそこは新門辰五郎、夜になると秘かに愛妾宅にやって来ては、あれこれと采配を振るったらしく、それが役人の耳に入って、再逮捕される羽目となった。

 辰五郎は事実を否認したので、酷い拷問を受けたが一切口を割らず、手を焼いた奉行所は、二人の愛妾を証人に呼び対決させたが、それでも辰五郎は、

「この女はどこの女衆か存じません。私は一度も会ったことも御座いません。」

と、突っぱねたという。

愛妾の一人が、

「親分、どうかまげて白状して下さい。罪は私達二人で引き受けますから」と、泣き口説くと、

「黙れ、ばいた奴、お前達は何の恨みが有って、この俺を罪に落そうとするのか」

と、叱り飛ばしたという。

(田村栄太郎『やくざの生活』参照)


辰五郎は愛妾達を巻き込んで、その者に「罪人としての苦労を味あわせる訳にはいけない…」

といった一心での行為であったと想像できる。

しかしてその結果は、辰五郎は佃島へと送られる羽目となった。


 佃島とは、寛政二年(1790年)2月に石川大隅守の屋敷裏の湿地16,000余坪を埋め立てて造られた人足寄場で、石川島人足寄場とも呼ばれた軽い科人の懲役所である。


しかし辰五郎、実に幸運の持ち主であった。

弘化三年(1846年)1月15日に江戸の大火が起き、それは小石川から霊岸島まで焼け抜け、住宅その他13,600戸を焼失するという凄まじいものであったというのだが、その火は辰五郎が収監されている佃島迄襲い、辰五郎は持ち前の俠気と、火消しの頭取としての経験を生かし、囚人達を指揮して消火に当たった為、その功を御上に認められた事によってご赦免となるのである。

時代の英雄とは得てしてこういうもので、生れついた幸運を備えていると言うが誠か否か…。


 ともあれこうした一連の事件で一躍有名を馳せ、江戸市中はおろか、方々の業界人に迄名前が知れ渡ったのだという。

辰五郎は、「興行師はもとより、浅草観音参詣客相手の露天商からカスリを上げ、博打も打った為に、的屋・博徒の両方から畏怖された」…と、ある。

辰五郎は、「来る者は拒まず

といった考えで、鳶人足はもとより、ごろつき、罪人、寄場帰りの者、流れ者など、区別なく抱えた為、その子分は「辰五郎親分の為なら…」

と、いう命知らずの子分が2000人も、3000人もいたというが、それも至極信憑性のある話である。

中には行状の悪い者もしばしば居り、事件を引き起こしたりしている。


 これも余談ではあるが、当時の大建造物といえば、興行の劇場だったというが、その劇場とは町の中央にあり、多くの観客が集まるので火災が起こりやすく、劇場は町方だから、出火ともなれば町火消しの世話になる。加えて建築を手掛けるのは大抵が鳶を中心とした建築関係の仕事を請け負う職人であるから、つまりは町火消しが担当する事と成る。

そうした背景が有って、劇場主や興行主は、興行の度に、地元の鳶頭の処へと付渡り(包み金)を届けるようになったらしい。

それが相撲、寄席、仮設興行などありとあらゆる興行まで広がり、的屋でいう「ショバ代」「ゴミ銭」、「博打のカスリ」、なども一体化、混合化し、町火消しの収入源の中でも相当のウエイトを占めるに至ったという事である。

町火消し(鳶人足)は、それに報いるに、防火を兼ねて人を出し、場内整理、客制限、警備などを引き受ける事と成ったという。

(『やくざと日本人』猪野健治 参照)


こうして幕末の鳶人足・町火消しを代表する親分・新門(町田)辰五郎は、興行師はもとより、テキヤ、博徒の双方から畏怖される大親分と成って行ったのだ。

辰五郎は支援者にも恵まれていた。これも偏に人間新門辰五郎の人徳というものなのだろう。

辰五郎は、上野東叡山の管轄下にあった浅草寺の門番方を、上野大慈院の義寛より任される。

門番方というと錯覚されがちであるが、それは端役などではなく、要は浅草寺の風紀衛生を取り仕切るだけの事で無く、境内の一切の利権、つまりは露店や仮設興行、見世物などの総てを任せられたのである。

これに付随して、人ごみを縄張りとするスリや街頭易者などからも付け届けが届くといったように、莫大な資金源と成った事は言うまでもない。なんでも、こうして集まるゴミ銭を入れてあった押入れの床が抜けた程にゴミ銭が集まったという。

藤口透吾によれば、この上野大慈院の義寛が、後の十五代将軍となる徳川慶喜に結びつけたのだという。

辰五郎の娘は徳川慶喜の愛妾に成っている。

その故あってか、幕府の統制が緩み、時流の流れから叛乱の狼煙が上がる頃になると、慶喜は、辰五郎を頼るようになり、様々な文献を見るにその間柄は旗本並みに親密である。

辰五郎は、慶喜の命令通り良く働いたらしいが、慶喜の義父である事を自己の繁栄のため活用したことも事実であるようだ。


この辺から幕府は加速して時代の波にのまれて行くのだが、余りに徳川慶喜に近かった新門辰五郎も、そうした時代の波に翻弄されて行く。
 文久三年(1863年)、十四代将軍徳川家茂が京都警備の必要から上洛する事と成り、二条城に入城するにあたり徳川慶喜も同行した。その際、慶喜の警護として辰五郎は子分300人を従え一行に加わったというから、本物の佐幕派だったことが伺える。

京都につくと、二条城の防火を任され警備をしたというから面白い。

 家茂が休止して後、十五代将軍徳川慶喜が誕生する訳だが、この最後の将軍様が、偉かったのか、はたまた愚鈍であったのかの評価はさまざまにしろ、いずれにしても鳥羽伏見の戦い以後、幕軍が戦いに敗れた事を聞いた徳川慶喜は、敵前逃亡といったら聞こえも悪いが、大阪城からそそくさと開陽艦(幕府の軍艦)に周囲の主だった者と乗り込み、撤退の準備に取り掛かったらしい。

しかしそのさい幕軍は、家康公から代々受け継がれてきた由緒ある徳川の馬印(大金扇の馬印)を大阪城に忘れてしまい、その馬印を取ってくるよう辰五郎に命じたという。

辰五郎は二つ返事でそれを請け負い、見事に大阪城から奪還するに成功して戻ったが、その時すでに遅く、開陽艦は出発してしまっていた為、あえなく陸路、東海道を上って追っかけたという事である。

また慶喜が大政奉還して、水戸へ謹慎する事と成ったときは、御用金の二万両は辰五郎が輸送した。と、田村栄太郎氏は書いている。


『氷川情話』などを見ると辰五郎は、幕末の三舟で名高い勝海舟との繋がりもあったらしく、

「新門の辰はもののわかった男だ。こういう男は金や威光では動かず、意地で行動する」

などと記載してある。

 勝海舟と西郷隆盛との会談が決裂した場合、江戸市中に放火する役目を仰せつかっていたのが辰五郎らだったという説もあるが、その辺は定かではない。

史実を見ると、

慶応四年(1868年)一月、朝廷は鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜に対し、徳川征討令を発し、薩摩・長州の藩兵を主流とする五万の征討軍は直ちに江戸に向かった。

これを聞いた慶喜は、即座に大政奉還して上野東叡山大慈院に蟄居し、恭順謝罪書を御上に提出した上、江戸城を征討軍に引き渡したが、それをよしとしない旧幕臣配下の彰義隊五千人が、上野の山にこもり最後の抵抗を試みた。

勝海舟は、両軍の戦火で江戸市中が火の海と化すことを懸念し、町火消し四十八組に出動態勢を取らせる一方、親分衆に働きかけて、江戸市中の警備を要請したとなっている。

辰五郎はこの時、「を組」の二百数十人を引き連れて、征討軍の放火で燃え上がる東叡山に駆け上り消火にあたっている。

芝居などでは、これが辰五郎が官軍を向こうにまわしての、一世一代の大喧嘩などとしているが、幾ら度胸が据わっていたとしても、飛んでくる大砲の弾に鳶口一つでかなう筈もなく、命からがら逃げのびたと言う事は想像の出来るところである。

ただ、戊辰戦争に際して、江戸に火災・盗賊の横行等が最小限に止められたのについては、町火消し四十八組の統制のとれた市民兵的行動が大きく寄与していた事は確かだと見られる。

勝は官軍の江戸進撃の前夜、手薄になった江戸の治安を、町火消しとごろつきの親分たちに頼みまわったが、親分たちは勝の申し入れを

「へぇ、わかりやした。この顔が入用でしたら何時でも御用に立てます。」

と、二つ返事で引き受けたという。

勝は、官軍江戸入城後、無政府状態であったにもかかわらず、放火や盗賊の横行が少なかったのは、彼らの力による処が大きいと評価している。

明治二年(1869年)九月、徳川慶喜は謹慎を解かれ、水戸から静岡へと移った。この際も辰五郎は慶喜に同行している。


静岡では、勝と共に幕末の三舟の一人といわれ、勝海舟の腹心であり、西郷隆盛と直談判し江戸城を無血開城へと導いた立役者の一人、山岡鉄舟がおり、また、鉄舟を師事していた清水港の親分、ご存じ清水次郎長ともこのとき出会い、共に親睦を深めた。

辰五郎と次郎長はその後、兄弟分の契りを交わしたという。

勝の腹心・山岡鉄舟を、西郷隆盛との江戸城無血開城への会談に向かう際、護衛をしたひとりが次郎長だった。


明治二年(1871年)、東京府に消防庁が設立され、町火消しは従来の町抱えから、府の直轄になったことなどから、慶喜の警護を清水次郎長(当時50歳)に託し、浅草に戻る。


明治八年(1875)九月十九日、浅草馬道の自宅で病没する。


新門辰五郎 享年70歳

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