東京都交響楽団第822回 定期演奏会Aシリーズを、東京文化会館大ホールにて。

指揮:ヤクブ・フルシャ

 

マルティヌー:交響曲第5番 H.310

ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ホ短調 op.93

 

 

仕事の都合で前半聴けないはずだったのが、まさかの早終わりで新幹線が1本繰り上がり最初から聴けることになった。ラッキーである。

 

前半はチェコの作曲家、マルティヌーの5番。

マルティヌー、チェコの作曲家という観点で聴くと肩すかしを食うぐらい、全くチェコの作曲家らしからぬ作風だ。それもそのはず、彼はパリでルーセルに学んでいるのだ。そのため、彼の作品を全くの事前情報なしで聴いたら、おそらくフランス近代音楽だと思ってしまうのではないかというくらいだ。

そのようなマルティヌーの作品、同郷人フルシャの演奏で聴いても私にはチェコ人の作品には聞こえなくて、しなやかで明るい曲想に歯切れ良いリズムが心地よい音楽である。とはいえ共感にあふれた演奏であることは間違いない。土台がしっかりした素晴らしい音を出しているオケが印象的。

 

後半はショスタコ10番。10月後半にノット/東響のこの曲をザグレブ、ウィーンで聴いたばかりであるが、オケの完成度は正直、都響の方が高いかもしれない。

リストのファウスト交響曲に似ている冒頭の主題、コントラバスとチェロで奏されるこの部分のゴリゴリした手触りは、まるで旧ソ連のオケを聴いているよう。チェロとコントラバスに限らず、東京文化会館のデッドなアコースティックで聴いても、弦セクションの音の手触りの重厚感は圧倒的で、音の密度が極めて高い。ホルンを中心とする金管セクションの輝かしい響きも特筆ものであるし、木管はしなやかな上に重量感も持ち合わせている。

フルシャの指揮、先日のマーラー1番同様、ダイナミックで推進力に富んでおり素晴らしい!やはりこの指揮者は並々ならぬ才能の持ち主である。

その一方で、今日のショスタコーヴィチ10番、やや硬さとぎこちなさを感じたのも事実。もう少し流れがいいとよかったのであるが。これがインバルだったら、ある程度都響に自由に任せた上で、随所で上手に手綱を引き締めたことであろう。

あと、これはないものねだりなのだが、旧ソ連当時の空気を吸っている世代の旧ソ連・東独の指揮者たち−−−現存する指揮者だとゲルギエフ、テミルカーノフ、ロジェストヴェンスキー、フェドセーエフなどだろうか−−−の演奏に比べると、フルシャの演奏には追い詰められた重圧感とか、切羽詰まったやるせなさとか、先が見えない陰鬱な雰囲気とか、そういった要素がやや希薄に感じられる。いや、出ている音自体は十分に重厚なのであるが…

こうした陰鬱な要素が全くないショスタコーヴィチ10番の演奏の最右翼は、2012年にスラットキンがN響に客演したときの演奏。あれは、ショスタコーヴィチがコーク片手にポップコーンをほおばっているかのような、もう脳天気と言っていいくらいのすかっとさわやかなショスタコ10番だった。あの演奏に比べれば今日の演奏はずっとシリアスだったけれど。

 

オケは前半、後半とも16型通常配置。いつものことだが、都響の聴衆のマナーの素晴らしいこと!

フルシャは都響のベートーヴェンの第9を指揮するが、既にチケットは完売。買い損ねた…