陰と陽、光と影、物事には表と裏があります。
「自由」と「責任」
これも表と裏なんですよね。
子どもによく、「やりたい事があるなら、やらなきゃいけない事もしないといけないよ。」って言い聞かせ育てて来ました。
いや来たつもり?かも…。
やりたい事だけやって、やらなきゃいけない事をしていないのにも関わらず、それを「ウソ」をついてまで怠った時には「怒らず」、「叱り」ました。
「怒る」と「叱る」
同じようで、全く違う。
子育てをしている頃、必死に叱って来たつもりです。「怒る」と萎縮して恐怖におののき、最悪の場合、更に「ウソ」をつく。「叱る」と悟り、どうすれば同じ過ちを起こさないか考える。
私は、数年前に亡くなった父親によく、怒られ、叱られて育ちました。
だから、その痛み、ダメージが分かるつもり(?)なんです。
そして、その違いも…。
日本語は世界の言語の中でも、一つの事柄を様々な表現で言える繊細な言語だと思っています。
コトバひとつで、相手が傷つくのか、傷つかないのか…。
「人の痛み」が分かる人間に育ててくれた父親に今更ながら感謝です。
世間には、自分が言われたら、されたら、相手がどう感じるか分からない人が多いと思います。
そして、その行為を許せるのか、許せないのかという度量も人それぞれ…。
だからこそ、「人の痛み」がわからなければ、ティーチングとコーチングを使い分けることが出来ずに中間管理職や管理者となって、ハラスメント行為ともわからず、人の上の立場に立ってしまう人がいる。
ましてや、「ゆとり」、「悟り」世代の人は、その度量も皆無(言い過ぎかな?)で打たれ弱い。
皆が皆とはいいませんが、メンタルが弱い。
そう思います。
家庭だけの話しならよいのですが、社会に出てしまってから、人の痛みがわからず、メンタルが弱いことに気付かずに日々を過ごしているから、他人とコミュニケーションを上手く取れない。
酷いと心の病に陥ってしまう。
そんな人間が増殖しないことを、職場を通してですが感じています。
「何を考えているのかわからない。」
「報連相ができない。」
そんな人がいなくなる事を祈って止みません。
「自由」とは自らを由とし、他からの束縛を受けず、感じず、心のままに生きる行為。
けれども、独りで生きている人は限りなくゼロに近く、少なからず他の人に影響を与えているはずです。
当たり前なことですが、
だからこそ、そこに「責任」を感じて、「責任」持ってもらいたい。
「責任」とは責めを自らに任せることです。
特にコトバは、人の心を突き刺す刃にもなりますよね…。
「人の痛み」がわかる人がひとりでも多くなる世の中でありますように…。
合掌