宇宙の摂理も数式化できる?(『危機』解説その6) | takehisaのブログ

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みなさん、こんばんは。現象学の祖フッサール先生の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)の解説書を関西弁にしてしまえ~という強引な試みを、性懲りもなく今日も始めさせていただきます。暇な方、そうでない方、どちらもおつきあいいただければ幸いです。元本は竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)です。

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ともあれここからもうひとつの理念が生じるんよ。「ここから」いうんはフッサール先生が、経験的感性としての「あいまい」なものと数学や科学の公理のような「確実なもの」の対立は、近代科学の成立によって歴史的に作り出されたもんやと考えはったことや。どんな理念が生じるかいうたら、客観的で確実なものとしての「式」「定式」の網の目の無限の延びひろがりによって、世界(宇宙)の秩序の総体、世界全体の真を客観的に認識しうるっちゅう理念よ。これは単なる「自然の数学化」やなくて、宇宙の摂理も「数式化」できるっちゅういわば「世界の総体の数式化」の理念やと言えるわな。

世界の一切の事象は、厳密な因果の連関の法則性を持って存在するいうわけよ。科学はそのすべてを解き明かしているわけやないけど、すくなくともそれは無限に「究極的な」真へ近づきつつあるんやと。これが近代科学の暗黙の基本理念なんよ。

フッサール先生は近代科学が打ちたてたこの世界客観の理念を「自然主義的態度」と呼ぶんやけど、ぼくらのごく普通の世界像は単なる素朴な世界像やなくて、この「自然主義的態度」(<主観ー客観>図式)を暗黙の土台とするような「自然的態度」なんや。両者の違いは、「自然的態度」が<主観ー客観>図式の素朴な信憑をもととした生活的、経験的態度であるのに対して、「自然主義的態度」は<主観ー客観>図式を自覚的に捉えて、その因果系列を厳密な法則として見出しつづけようとする学的、理論的態度やという点にあるんよ。

こうしてフッサール先生は、現在ぼくらがごく自然なものとして持っている世界像(自然的態度)が、みんな近代実証主義っちゅう大工によって建てられた新しい家やということを鮮やかに示しているわけよ。

ぼくらの自然な世界像はもはや、時間や空間の感覚をはじめとして、神話的な彩りを強く持っていたかつてのより素朴な世界像に較べて、大きな変容を受けていることがわかるんよ。近代の合理主義、客観主義の理念が長いプロセスをへて完成され、そのことによって中世的世界像は、均質な時・空間と客観的因果を持った近代的世界像へ位相変容されたんよ。

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関西弁にすることで哲学的な言い回しに抵抗のある方が、少しでも読みやすくなればと祈っております。毎回「1回読み切り」を心がけていますが、どのぐらいうまくいっているでしょうか。読んでいただきありがとうございました。m(_ _)m