「ふたつの世界」の起こり(『危機』解説その5) | takehisaのブログ

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2015年9月以来1年間サボっていましたが、自分は現象学の祖フッサール先生の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)の解説書を故・森毅京都大学名誉教授調の関西弁に「翻訳」するという作業をこのブログでしていました。その前は同じことをフッサール先生の現象学の経典『イデーンⅠ』の解説書(同じ本)でやっていました。今日からまた『危機』の解説書の関西弁訳を再開したいと思います。とはいえ長いブランクのあとだけに頭脳の衰えは隠し難いです。そこでこれからは「Ⅰ回読み切り」を心がけたいと思います。元本は竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)です。みなさんよろしくお願いします。

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近代の実証主義は因果系列の網の目を、一本の樹が無際限にその枝や葉をしげらせて巨木へと成長するみたいに、「たえず新たに」、「果てしなく(無限に)」拡大していくんやけど、ここからまたふたつの暗黙の理念が成立したんよ。

ひとつは、一切の因果関係は「式」、「法則」として表現(把握)できるっちゅう考え方や。


この自然の「定式化」は重要な意味を持っとるんよ。「一度式を手に入れたら、それによって、具体的、現実的な生活の直感的世界(略)で、経験的な確実さで期待されるもんを、実践的に望ましいやり方で、あらかじめ予見できるようになる(『危機』第9節 f)

「式」は単に生活上の目的のために、事柄の客観化された(=どんな人間にも通用する)量や性質を表現するだけやあらへん。それは、これこれの場合はかくなるやろうっちゅう予測まで可能にするんよ。このことは、人間の日常の経験は主観的で相対的な世界で、これに対して計量化され客観化された世界こそが確実で絶対的な世界やっちゅう感覚を人間に与えるわけよ。

ぼくらははじめに、経験的感性としての「あいまいなもの」と数学や科学の公理みたいな「確実なもの」との対立をどう考えるかいうところから現象学が出発したことを見たんやった。ここでフッサール先生は、その対立は、近代科学の成立によって歴史的に作り出されたもんやったっちゅうかたちで、この問題を解き明かそうとしていることになるわな。

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みなさん、個々までお読みいただきありがとうございました。何せ久しぶりなので、今日はこれぐらいにとどめさせていただきます。次回もよろしくお願いいたします。m(_ _)m