時間と空間の均質化(『危機』解説その3) | takehisaのブログ

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 さあ、今週もやってまいりました。いつもの元本、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)でのフッサール晩年の主著、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(ややこしいので『危機』と省略)解説。先週は9名もの方に「いいね!」をいただきました。人気ブロガーさんには笑われそうですが、自分としては満員御礼です。ありがとうございます。m(_ _)m それでは今週も「関西弁訳」で始めていきましょう。

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 測定するっちゅうことは本来、人間の生活での必要から生じたもんや。ここにリンゴの樹を何本植えられるとか、どの土地が羊を飼うのに適しとるとかいうたことが測定の技術の根にはあったんよ。せやから、測定の技術がはじめに求めたんは、生活する上での<~のために>っちゅう目的にかなうような測定の規準を見出すことやったんや。

 ところが、この「自然の数学化」はこの基準の精度を飛躍的に高めて、それによってこれを一般化して、客観化するんや。このとき、見出された規準の性格は一変するんよ。

 たとえばまず、時間と空間の均質化や。

 近代以前の社会生活では、人間にとって時間や空間いうもんは、異質でいろんな意味に満ちとった。たとえば人の行き来せえへん深い森は魔物や妖精なんかのすむ異界やったし、お城のうちっ側は高貴な人間が住んどる”聖なる”エリアやとみなされとった。これらのエリアは、日常空間の場所である「俗的な空間」とは分けへだれとった異質な空間やし、また、「俗的な空間」と「非俗的な空間」を区切るもんである「境界的な空間」いうのもあったんよ。

 時間についてもそうや。中世では、昼と夜は異質な時間やと感じられとった。昼は人間の生の力、労働の力、理性の力がみなぎっとる時間やし、夜は、いろんな想いや不吉なもん、霊的なもんの活力がざわめきだす時間やった。それから、ふだんの日と祝祭日は、やっぱり「ケとハレ(俗と聖)」っちゅう明らかな異質な性質をもっとったんよ。

 ところが、測定の技術に始まった数量化され、純粋化され、理念化された測定「規準」は、こないなかつての時間・空間の異質性をいっぺんに均質化してしまうことになるんよ。それまで非日常的空間やった領域も、この「基準」によれば単なる数量の価値に”還元”されるわな。昼の1時間と夜の1時間は”等しい”もんになるし、どんだけ”聖なる空間”でも1フィートは1フィートとして測られるからや。

 そうすると、こういう事態から、さらにひとつの奇妙な考え方が現れたんよ。

 ガリレイの「物理学の理念」、いうたら近代的な自然科学で、自然の客観を真に(あるがままに)認識できるっちゅう理念は、こないして、測定の技術、規準の、絶えることない完全化の努力のプロセスのなかで成立したんや。そうフッサール先生は言わはるわけよ。

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 みなさん、ここまでお読みいただきありがとうございました。今回、自分は少しごまかしました。最後の段落の、[ガリレイの「物理学の理念」~]のところの前に、元本では原典『危機』の第9節 bの引用があったのですが、自分の理解を超えていて手に余ったので省略しました。すみません。m(_ _)m 自分が理解していないことを書くと読んでくださる方はもっとわからないだろうと思ったからです(言い訳)。ではまた来週~(^_^)/~