自然の数学化(『危機』解説その2) | takehisaのブログ

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 みなさん、こんにちは。今日もフッサールの現象学を関西弁で語っていくわけですが、自分はこいうことをやり始める前は、1980年代にNHKにいた三枝健起(さえぐさ けんき)さん演出の幻想的で美しいドラマの感想というか解説を書いていました。幼い文でお恥ずかしいのですが、よかったら、記事上部の「記事一覧」からご高覧ください。
 さて、関西弁でフッサールを語るぞ企画をやり始めたころは、「いいね!」をしてくださる方がお一人もおられなかったのですが、最近では毎回、数名の方が「いいね!」をしてくださいます。ありがたいことです。
 それでは、今週も始めていきましょう。

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 今日も、『危機』の解説や。『危機』いうんは、フッサール先生晩年の主著『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の略よ。これからしばらくは、近代以降の哲学で<主観/客観>図式(<主観>と<客観>が一致するか)がなんで自明な世界像になってしもうたんかを明らかにするわな。

 それにはまず、ガリレイの測定術と自然の数字化から見ていこ。フッサール先生によると、近代の合理主義的世界像は、ガリレイの測定術に端を発するんよ。近代合理主義の世界像は、三つの大きな特質を持っとる。ひとつは、時間、空間の均質性いうことや。もうひとつは、世界の総体を客観的な因果の系列としてとらえられる、そんでそれを計量(数式化)できるっちゅう理念や。ほんで最後は、心身二元論や。

 この三つのことすべてが、シンボルとしてはガリレイの測定術に端を発しとるんよ。

 ガリレイの測定術は何をしたんか?フッサール先生によると、人間の経験的で実践的な認識を数字に結びつけて、それを「純粋な幾何学的思考」いうもんに理念化したっちゅうことなんよ。

 測定術はもともとは、どっかからどっかまで行くにはどう歩いたらいちばん近いんかとか、この土地とあの土地、どっちが広いんかとかを調べるための、経験的、実践的な「動機」を持っとる。これを実際にやってみると、たとえば、ある点からある点までの長さを、できるだけ直線に近づけて測る必要が出てくるやろ。こういうことが、「自然の数字化」の発端なんよ。

 そこでたとえば、できるだけ正確な尺度を作り、糸やったらたるむんで、スコープによる測定法をあみ出すちゅうことが工夫されるわな。こないな技術は「絶えず進歩」して、いよいよますます「完全」に近くなるやろう。そしたら、この工夫の経験のなかで、ある重要なことが起こるんよ。

 どういうことかいうたら、この技術上の「完全さ」いうことそれ自体が、ひとつの理念として頭の中で思い描かれるっちゅうことが起こるんよ。この「理念化された形態」だけをくわしく扱う者として、純粋「幾何学者」が登場するわけよ。これが「自然の数学化」いうことのはじまりになるわけよ。

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 みなさん、ここまでお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m 自分がブログに哲学の話題を書くようになったのは、さきほど言った、三枝健起さん演出のドラマがネタ切れになったからなんですね(^^; でも、哲学(現象学)を扱うようになってから、ときどきコメントを下さる人もいらして、とても楽しいです(ただし広告目的の方はご遠慮ください)。ひっかある所があれば、お気軽にコメントしてくださいね。(^^) ではまた来週~(^_^)/~