近代の世界の見方って?(『危機』解説その1) | takehisaのブログ

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 さあ、今週もやってまいりました。いつもの元本、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)。先週はコメントをくださった方がおられました。ありがとうございましたm(_ _)m もちろん「いいね!」してくださった方も。自分は理工系で、哲学が専門ではないので、質問、疑問、反論などなんでもコメントしていただければうれしいです。もっとも、広告はご遠慮願いたいですが(^^;
 さて、先週で『イデーンⅠ』解説は一応終わりましたので、今週からは、フッサール晩年の主著『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(長ったらしいので『危機』と略)を関西弁で語っていきましょう。

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 さあ、今週からテキストが変わったでえ。『危機』や。『危機』いうんは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の略よ。この本は、フッサール先生が年取ってから書かはった本や。今日はまず、『危機』のなかから「近代的な世界像の成立」いうムズカシゲなテーマを取りあげていこか。

 ヨーロッパの哲学は、ルネッサンス以降、ひとつの美しい理想を花開かせたんよ。その理想は何かいうたら、それは神学から与えられとった世界の教えの代わりに、人間の理性が自分で、世界がなにか、人間の存在の意味がなにかいう問題に答えられるいうもんよ。この理想は古代ギリシア以来のもんで、普遍的な「学」いうことになるな。せやけど、この普遍的な「学」いう理想は、結局、自然存在をとらえようっちゅう実証科学を除いて「挫折」してしもうたんよ。

 実証科学はもともと「学」ちゅう意味では、ひとつの傍流にすぎへんかった。たとえばアリストテレスの説やったら、形而上学が第一哲学や。なんでかいうたら、「学」いうんは本来、人間性やとか自由やとか生とかいったもんの意味を、優れた意味での普遍性ちゅうところでとらえようとする考え方やったんやから。せやけど、19世紀になると、こないな問題を受けつぐ人文科学系の「学」は、いろんな説の成立(いうたらイデオロギー対立)、すべてを相対化しようとする主義、すべてに懐疑的な主義なんかの前で、その理想を保てなくなってしもうたんよ。ほんで、この「挫折」の真の原因をだれも考えへんかったんや。

 その原因は、いうたら、ただひとつや。つまり、<主観/客観>問題、むずかしゅういうたら「主観性の謎」が認識論で持っている根本的な難問を、だれもきちんと解き明かさんかったこと、このことに尽きるわな。

 もしこの謎を解けるんやったら、ぼくらは、ルネッサンス以降の「普遍的な学」の理想がそう的外れやないことや、新しい課題と「普遍的で必然的当然的な地盤をもつ」、新しい哲学が、実際やってみて可能やいうことを理解できるんやけど・・・。

 こういう見方からフッサール先生がまず解き明かそうとするんは、”なんで、あの近代以降の<主観/客観>図式が、だれもがいだく「あたりまえの」世界像になったんか”ちゅう問題よ。

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 今週はこれだけです。みなさん、ここまでお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m 「あれ?」と思う点があれば、バシバシ突っ込んでくださいね。ではまた来週~(^_^)/~