あいまいなもののものさし(『危機』その4) | takehisaのブログ

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このごろ思うところあって、ブログの更新を休んでいました。「また来週~」と言っておきながらすみませんでした。m(_ _)m
それでは気を取り直してフッサール現象学晩年の著書『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)の関西弁訳を久しぶりにはじめていきましょう。元本は竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)です。


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前回は、「測定」することはもともと生活の必要から生じたものやった。せやけど、測定の技術が精密化するとそれが抽象化されて、「自然の数学化」がおこるという話やった。その発端はガリレイの測定術やった、いうことやったな。


しかしガリレイにも難点があるんよ。時間や空間の測定は時計やものさしで測れるけど、「あつい寒い」、「やわらかい固い」、「明るい暗い」、「つるつるざらざら」いうような「感性的」で「あいまいな」自然の性質をどう数式化するかは、またべつの問題を持っているっちゅうことや。こないな性質は、単なる時間や空間のひろがりとは違った性質を持っとるんよ。いうたら時間や空間のひろがりは自然自体に属する形式やのに、「あつい寒い」とか「つるつるざらざら」は人間の感覚に依存する性質やと言えるからや。


ここで近代科学は、こないな自然の多様な感性的な性質にたいして『因果系列』っちゅうもんをもちだしたんよ。どういうことかいうたら、すべての自然のものごとは必ず因果関係の糸で結ばれとるっちゅう仮説を置いて、この見かたから感性的な性質を”測りとる”いう新しい「基準」を発見したんや。


たとえば、水は寒いときには氷り熱くなると沸騰する。こないな経験の上での因果関係は、それを「客観的に」抽象するいう目標によって「温度」いう基準でとらえなおされるんよ。


せやけどここでもさまざまな困難がつきまとうんや。まず「寒い暑い」いう感性的な性質を数量化するには、熱によって一定の性質でふくらんだり縮んだりする適当な物質(例 アルコール)を探さなあかん。その物質が決まっても、水は必ずしも一定の目盛りで氷るわけやあらへん。この「因果」を確定するために、さまざまな仮説が立てられていろんな条件のもとで実験が繰り返されるんよ。水の成分や気圧の条件、アルコールの条件などをはっきり定めるいうような努力が重ねられるわけや。そしていわば自然の中にはないような純粋な環境を作り出して、そこではじめて水が氷る点を0度として定めることができるんよ。ものの感性的な基準に客観的な「基準」を与えるために、自然科学はさまざまな仮説(因果関係の)を決めて、実験を重ねることでこの仮説を確定していく必要があるわけや。


ところが、こないにいったんあることがらの「基準」ができると、この手続きが繰り返されることによって、「仮説」としての因果関係が果てしなくひきのばされていくことになるんやな。


近代の自然科学はこの工程をクリアした。ほんで自然科学のこの成果を受けて人間は、社会科学、心理学、歴史学などの人文科学をうちたてたんよ。重要なんはそこにも、仮説と実験も繰り返しによって世界の「客観的な因果関係」を確定できるという考えを、そのまま持ちこんだ点や。ここでガリレイが考えた近代科学の客観理念がほぼ完成することになったんよ。


おさらい。ガリレイの測定術に始まる「自然の数学化」は、まず時間・空間のひろがりの計測「基準」の完全化からこれを理念化したんや。ここからものごとの感性的な性格を因果関係として計量化、数式化、客体化する方法をつかんだんよ。ほんでこのこの因果関係の計量化、数式化の理念は、さまざまな社会科学の方法にまで拡張されたんや。このとき近代的な実証主義は、世界の客観それ自体を「正しく」認識できるという考えをはっきりと打ち立てたわけや。


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いや~、すっかり長くなって申し訳ありません。m(_ _)m
書くのをサボっていたから、調子が出ません。ここまでお読みくださってありがとうございます。これからは不定期で更新させていただきますので、よろしくお願いします。