ヘーゲル先生VSフッサール先生(イデーンⅠ解説その3) | takehisaのブログ

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 今回は、「目線」ちゅう観点から考えてみよか。
 まず、ヘーゲル先生の意見を聞こうやないか。ヘーゲル先生の言うのんには、まず、素直に目の前の対象を見る目線があるんや。これを『第一視線』と呼ぼか。次に、「上から目線」で、<意識>と<対象>の関係を、客観化、対象化しようとするのんがあるやろ。この目線は、難しゅう言うたら、『<真>の契機』言うんやけど、そんなことはどうでもええ。この「上から目線」を『第二視線』と呼んどこか。ヘーゲル先生の画期的なところは、いっぺん『第二視線』が生まれると、その像が身にしみて、目の前の対象になって、素直な目線で見られるんよ。つまり、『第二視線』が、新たな『第一視線』になるわけよ。ほんだら、必然的に、それに対する『第二視線』も新たに生まれるわな。こんなことをくり返して、世界像がどんどんパワーアップしていくんよ。

 こんなふうに、世界像がパワーアップしていくと、その究極に、<絶対知>いうんが想定されるわけや。言うたら、神さんの知みたいなもんやな。ここで、ヘーゲル先生(哲学者)の視線は、この運動の「必然性」をもう一段上から見守る、『第三視線』ちゅうことになるわな。

 けど、ヘーゲル先生とフッサール先生の『第三視線』には、根本的な違いがあるんよ。ヘーゲル先生では、「思いこみ」から出発して、目線のパワーアップの果てに『絶対客観』ちゅう最終目標に向かう。せやけど、フッサール先生では、全く逆や。フッサール先生によると、ふつうの人間の高次化された(かつ憶見に充ちた)客観的世界像から出発して、もはや思いこみとはいえない<意識>の「はじまり」の「はたらき」がどんなんかを取り出すんを目標とするんよ。

 ヘーゲル先生では、『第一視線』が「思いこみ」で、それを客観化対象化した『第二視線』が、より<真>に近いんや。反対に、フッサール先生では、『第一視線』こそが人間の直接的経験で、これを客観化、対象化した、『第二視線』が「思いこみ」を含むんよ。『第二視線』につきまとう「思いこみ」を「括弧に入れる」こと(<エポケー>=判断停止)を、フッサール先生は、<還元>と呼ばはるんよ。

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今回は、思いのほか長くなってしまいました。これは、自分の力量不足です。すみませんm(_ _)m