最後に何が残る!?(イデーンⅠ解説その2) | takehisaのブログ

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 みなさんこんにちは。前回の『すべてを括弧に入れてしまえ! 』、自信たっぷりに書いたのですが、意外と支持が得られずしょんぼりしています。「いいね!」ボタンを押してくださったお一人の方、ありがとうございましたm(_ _)m さて、今日も、気を取り直して、関西弁で、フッサールの現象学の『イデーンⅠ』を語っていきましょう。


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 人間の自然的な世界像は、
①具体的な直接の経験の世界
②伝聞、情報の世界
③「神話=フィクション」の世界
から成り立っとって、これらは、いずれも。「思いこみ」を含んどる。人間の自然的な世界像を疑ってみることを、フッサール先生は、<還元>と呼んだはる。人間の自然的な世界像の「思いこみ」のありようを、「思いこみ」のはじめの出どころに<還元>してみようやないか。フッサール先生によると、もはや「思いこみ」とはいえないところまで<還元>すると、『純粋意識』というものが、すべてをはぎとったあと取り出せるんや。


 『純粋意識』について、ちょっと説明しとこうか。フッサール先生が、<還元>をして『純粋意識』を取り出したやりかたは、デカルト先生が、全てを疑い尽くしたあと、最後に唯一確実なものとして「コギト(=考える私)」を取り出したんと同じやり方よ。このとき『コギト』に当たるのが『純粋意識』や。


 せやけど、『コギト』と『純粋意識』には、微妙な違いがあるんや。デカルト先生は、『コギト』を「実在するもの」として考えはった。それに対して、フッサール先生の『純粋意識』は、世界や、ものごとや、自分の存在の確信をつくりだしていく「はたらき」のことよ。


 人間は、ヴァーチャル・リアリティの世界に置かれても、その世界に現れるものごとみんなを、実在する”現実”やと信じるはずや。現象学の課題は、この”信憑”がどんなふうに生じるんかを明らかにすることや。そのために現象学は、ヴァーチャル・リアリティに置かれている人間の”現実”を構成しとるもんを、一旦、その要素に<還元>して、そんでもって、それらの要素の間の関係を明らかにしようとするんよ。


 この例では、まず、ヴァーチャル・リアリティに置かれとる人間に加えられた感覚刺激から生じる「イメージ」を取り出せるわな。これを『意識相関者(意識内容)』と呼ぼうやないか。ほんで、これをつねに統合して、ひとつの経験へまとめ上げる<自我>の「はたらき」を、別の要素として取り出せるわな。これを『純粋自我』(『純粋意識』ちゃうで)と呼ぼ。


 こんなんして、フッサール先生は、世界に対する、人間の自然な信憑を、ふたつの要素、『意識相関者(意識内容)』と『純粋自我』に<還元>するわけよ。


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みなさん、ここまでお読みいただきましてありがとうございます。なお、前回の、『すべてを括弧に入れてしまえ! 』で、「<還元>は、デカルト先生のように、『全てを疑い尽くしたあと何が残るかと考えた考える』というほど徹底したもんやなくて・・・」と書きましたが、誤りでした。すみませんm(_ _)m