コロコロ変わっているのに、何で同じだといえるの?(イデーンⅠ解説その4) | takehisaのブログ

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 毎度お読みいただき、ありがとうございます。前回の『ヘーゲル先生VSフッサール先生(イデーンⅠ解説その3)』では、自分が送ったメッセージで、お2人の方に不愉快な思いをさせてしまったようです。申し訳ありませんm(_ _)m 以後気をつけます。それでは今日も襟を正して、フッサール現象学の『イデーンⅠ』について関西弁で語らせていただきます(と言いながら、やはりエエカゲンなことを書き続けるのですが(笑))。最後までお付き合い願えたら幸いです。今回は、『イデーンⅠ』の引用もありますので、たいへん長くなっています。途中で休憩をとりながらどうぞ。では、はじめましょう。

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 今まで、「目の前のリンゴを見る」ちゅう素朴な体験を「これ以上疑いえない直接経験」やと思ってきた。せやけど、この体験も、<還元>(=「すべてを括弧に入れること」=<エポケー>=判断停止)をほどこさんと、「思いこみ」を含んどるんよ。フッサール先生は『イデーンⅠ』の第41節で、次のように言うたはる。

 「ぼくが、机を見続けてるとしようやないか。ぼくは、その机の周りをぐるぐる移動しているんや。ほんだらぼくは、そのたんびに、この机について、ありありとしたリアリティを感じるわな。その机はいつまでもその机のままや。せやけど、一方で、ぼくの机に対する知覚は、連続して変わり続けるんよ。ぼくが、眼を開けたり閉じたりすると、知覚を持ったり持たなかったりするやろ。そこで、もとと同じ知覚を持つことはないんよ。もとの知覚がもどってくることはあれへん。机だけが変わらんとあるんや。言うたらそれは、新しい知覚と、思い出した知覚とを結びつける、全部こみの意識の中で、(机が)変わらずにあると思い込んでるだけなんよ。」

 意識に現れる机の知覚は、つねに変化していくもんよ。せやのに、ぼくらは、「同一の机を見とる。」という確信を持っとるんや。フッサール先生は、さっきと同じ『イデーンⅠ』の第41節で、このようにも言うたはる。

 「知覚と知覚事物(例えば机)が一つになって結合されているちゅうことはあれへん。」と。

 これらをまとめると、
①<知覚>は、知覚事物(机)を決して一挙に与えることはあれへん。<知覚>はつねに知覚事物のある一面を、つぎつぎに異なった有様で与えるだけや(これを「射映」いうんよ)。
②意識には、ものごとの知覚は必ず<射映>ちゅう形でしか与えられへんけど、そんでも意識はこれを、同一の事物(机)の知覚として受け取っとる。

 フッサール先生が、これを説明するモデルに使うんが<コギタチオ―コギターツム>ちゅう何やら難しげなもんや。これは、<意識作用―意識対象>のことやけど、わかりやすう言うたら<机を見るという意識の働き―ひとつの机を見ているという事がらの経験それ自体>
いうことやな。

 次、ポイントや。机の様々な有様が連続して与えられる(コギタチオ)ちゅうことがあれへんかったら、ぼくらが、ひとつの机を見るという経験が生まれへんことは確かや。せやけど、人間の具体的な経験は、いろんな<知覚>がぼくらに連続的に生じて、それを意識的につなぎあわせて「ひとつの机」という像を得てるわけやなくて、一挙に「ひとつの机を見ている」という端的な経験(コギターツム)として与えられてるんよ。

 要するに、さまざまな<知覚>面を<意識>が瞬時に統一して、「ここにひとつの机がある」という基礎的な「思いこみ」を作り上げてるちゅうことやな。なんでかいうたら、ここで「ひとつの机」ちゅうコギターツムは、現実経験としては確かに与えられているもんやけど、現実的知覚としては、現に<意識>に与えられてるとは言いにくいからや。

 面倒くさいけど、フッサール先生の言うように<知覚>を『原的な直感』として規定するんやったら、「ひとつの机」を見ているという現実経験はもう、最小限の「思いこみ」を含んでいることになるわな。こうして、フッサール先生によれば、人間の具体的な経験は。「多様な知覚」ちゅう素材から、意識の「志向的な統一」という「はたらき」を通して構成されたもんやっちゅうことになるな。

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みなさん、ここまでお読みくださりありがとうございます。すっかり長くなりましたが、この文の元本は、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)で、それをさらに噛み砕いて「関西弁訳」したものです。原書にあたる力量は、自分にはありません。