『独りよがり』から出発して。 | takehisaのブログ

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みなさんこんにちは。今回もしつこく、フッサールの現象学を関西弁で語っていきます。どうか、最後までお付き合いを。


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 フッサールとデカルトの考え方は、実はよう似とる。それは、全てを疑って何が残るかと考えたことや。
 デカルトは、全てを疑い尽くした末、<考える私=コギト>を疑い得ないものとして取り出したんやな。
 フッサールも同じように、全てを疑い尽くした末に、<知覚>を取り出したんや。なんでかいうたら、フッサールは『独りよがり』から「出発する」。『独りよがり』の中では、主観はどんな意識対象でも、自由に考えたり、考えんかったりできるように思うやろ。せやけど、<知覚>だけは、目を閉じたり、耳をふさいだりせな、避ける事ができへん。目や耳以外の<知覚>やったら、主観から避けることすらできへん。だから、<知覚>が、「これ以上疑い得ない」もんやと考えたんや。

 せやけど、デカルトとフッサールには、違いがあるんや。
 デカルトは、<主観>と<客観>の一致という、近代哲学の祖やから、(1)<コギト>を疑い得ないものとして取り出した後に、「神さんの存在証明」をし、(2)次に、神さんを「保証人」として、<主観>と<客観>の一致を証明したんやな。
 でも、神さんを保証人として持ち出さなあかんかったということは、<主観>は、自分の外に出て、<コギト>の外側(言うたら世界)を保証することができへんかったちゅうことや。

 これに対して、フッサールは、<主観>と<客観>の一致にとらわれへんで、『独りよがり』から「出発する」から、<主観>は、自分の内側からだけ「疑えなさ」を求めるんや。そしてその「疑えなさ」の根本の条件が、<主観>の思い通りにならへん<知覚>ちゅうわけよ。


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ふう、今回は、少々冗長で、こなれてなかった感があります。すみませんm(_ _)m