『知覚』のお友達。 | takehisaのブログ

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 みなさんこんにちは。今日も関西弁で、フッサールの現象学を語るわけですが、実は、このシリーズの元ネタは、竹田青嗣・著『現象学入門』(NHKブックス)なのです。この本には、今まで語ってきたようなことが、標準語の哲学用語で易しく解説されています。では、今日も、始めていきましょう。


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 フッサールは、<主観>と<客観>の一致はありえへんと言うんや。その代わり、『独りよがり』から「出発して」、全てを疑い尽くした末に、疑い得ないものとして何が残るかと考えたら、それはある種の『直感』やったんやな。


 1つめの『直感』は、<知覚>や。「視覚」「聴覚」「触覚」なんかの<知覚>は、<主観>の意のままに、感じたり、感じなかったりできへんやろ。だから、フッサールは、「これ以上疑い得ないもの」として<知覚>を取り出したんや。これは、納得できるやろ。これを、<知覚>直感と呼ぼう。


 <知覚>直感いうても、例えば、小さい子がリンゴを見たときと、大人が見たときとでは、『直感』が違うやろう。これは、子供よりも、大人のほうが、リンゴについてよく知ってるからや。こんなふうに、<知覚>直感につきまとう、<知>=概念を、<本質>直感と呼ぼう。これが、もう1つの『直感』や。


 ここで、「あれ?」と思う人がいるかもしれへん。<本質>直感は、「これ以上疑い得ないもの」とはいえないんやないかと。リンゴに関する、<知>=概念(<本質>直感)は、やろうとすれば思いのままに、考えたり考えへんかったりできるやないかと。せやけど、<知>=概念(<本質>直感)は、恣意的に現れてくるわけやあらへん。それは、その人の中に、すでに形成されているもんや。せやから、<本質>直感も意のままに、考えたり考えへんかったりできへんと思ってええ。せやから、<本質>直感も「これ以上疑い得ないもの」として考えてかまへん。


今まで考えてきたことから、<知覚>直感と、<本質>直感の2つが「認識の正当性の源泉」ちゅうわけよ。


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なんだか、今度は、少し長くなってしまいました。すみませんm(_ _)m