まだまだ疑う。 | takehisaのブログ

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 みなさん、こんにちは。今日も関西弁で、フッサールの現象学をやりたいと思います。今まで、こういうことをやってきて、関西弁で哲学が語れるんだなあと、勝手に驚いています。案外、関西弁って高度な方言なのかも・・・。では、始めたいと思います。


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 人が、自分の考えの「疑えなさ」を確信する大元は、直接に経験されたことから来る「判断」や。それでも、まだ疑い深い人がおって、「この目の前のコップは本当に実在するんか?」とか言いよる。ほんだら、とことん疑って、自分の考えの「疑えなさの確信」として何が残るのか考えてみようやないか。結論から言うと、疑った末に、最後に残るのは、『知覚』や。これは、直感的なもんやから『知覚直感』や。


 何で、『知覚直感』が、疑った末の大元かというたら、ものごとを、想い出したり、記憶したり、想像したり、っちゅうことは、意識的にやったり、やらなかったりできる。せやけど、『知覚』だけは、目でも閉じん限り、シャットアウトできへんやろ。せやから、『知覚直感』が人間の、自分の考えの「疑えなさ」の確信の「源泉」や。


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 今日も、ここまでお読みくださり、ありがとうございました。このシリーズも、みなさんに飽きられないように、工夫していきたいと思います。ではまた~(^_^)/