デカルト先生の夢 | takehisaのブログ

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 みなさんこんにちは。今日も哲学の話題です・・・ってひかないでくださいね。自分は、頭のいい人間ではありません。その自分が「理解できた」ことだけを書いたのですから。ただし、自分の文章力のなさのために、わかりづらくなっているところがあるかもしれませんが、そこはご容赦をm(_ _)m


 近代哲学って何やったっけ?ああ、<主観/客観>図式、つまり<主観>と<客観>が一致するかどうかということから始まったんやなあ。その始祖はデカルト先生や。デカルト先生によると・・・


 <私>」は物事を疑ってかかる限り、確実に<私>は存在する。せやけど、「疑う存在」である限り<私>は不完全なもんや。


 せやのに、<私>は「たましい」とか「神さん」についての思いを描く。疑う不完全な<私>から「神さん」という「完全な」思いが出てくるわけあらへん。ほんなら<神さん>という「完全な」思いはどっかよそから出てくるとかんがえるしかあらへん。それは「神さん」からと考える他あらへん。なんでかいうたら、「完全で」「無限な」ものは「神さん」しか考えられへんからや。これで「神さん」の証明終わり。


 次に、<主観>と<客観>の一致の証明や。人間が「正しく」考える考えは、神さんから与えられたもんや。神さんが人間を欺くはずがあれへん。だから「正しく」考えている限りは<主観>と<客観>は一致すると考えてええ。これで証明終わりや。


 これが、デカルト先生が考えたこと。


 しかし、<主観/客観>図式は、人間いつかは、「完全な」考えに達するという、「偶然」の入る余地のない決定論に行きつくか、<主観>と<客観>が一致しないんやったら、人間は何一つ確かなことが言えないという「懐疑論」にいきつく。それは、どちらも極端や。



 だから、<主観/客観>図式を取り払おうとした人がおる。それが、フッサール先生や。


 フッサール先生はどのように<主観/客観>図式を取り払おうとしたんか?それは、なんとデカルト先生に学んだんや。デカルト先生によると、人間、どんなに確かに見えることでも疑おうと思えば疑える。この「現実」がいかにリアルであっても、それが「夢」ではないという保証はどこにもあれへん。


 世の中には『懐疑論』がはびこっているけれど、それなら、全てを疑って、最後に「疑い得ないもの」を取り出そうと、デカルト先生は考えはった。その「疑い得ないもの」とは何か、それは「心の世界を持つ<私>」や。ものごとを考えようとする限り、すべてを疑っても、この唯一確実な場所である<私>(コギト)から考え始めなしゃあない。


 フッサール先生は、デカルト先生から何を学んだんやろうか?それは、すべての物事を疑ってた末に、唯一「疑い得ないもの」を取り出した点や。でも、デカルト先生は<主観/客観>図式にとらわれていたから、「神」という判定者を出さなしゃあなかった。フッサール先生は、<主観/客観>図式を乗り越えて、「神」という判定者を持ち出さずにやろうとしはったんが画期的なんや。それは、独我論から「出発する」(あくまでも出発するだけ)の『還元』という考え方なんやけど。


 ここまでお読みいただきありがとうございました。それはまた続きは次回以降に(^_^)/