関西弁ヘーゲル・ニーチェ | takehisaのブログ

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 今日も、関西弁で「哲学」してみましょう。自分が理解したいためにこれを書いているところがあるので、トンデモない間違いをしている可能性もあります。そこはご容赦をm(_ _)m


 先の、『近代哲学なんて難しいことを(^^; 』に書いた、デカルト、カントのところでも言えるところですが、<主観>と<客観>の一致を保証するすべはありません。なぜなら、<主観>と<客観>の一致を確かめる「メタコード」があったとしても、その「メタコード」を確かめる「メタコード」が必要になり・・・と無限に続くからです。


まず、「関西弁ヘーゲル先生の授業」


ヘーゲル先生「人間の認識が<客観>に全く触れられないと考える必要なんかあらへん。人間の認識は、発展途上なんや。人間の認識は、どんどん発展していくんや。究極的には、<主観>と<客観>は一致すると考えてええ。いうたら、神さんの持つような認識や。」


生徒「ヘーゲル先生、それやったら、神さんみたいな完璧な認識にいくんやったら、歴史や世界はすべて認識されてしもうて、『決定論』に行きつき『偶然』の入る余地はないんと違いますか?」


ヘーゲル先生「・・・・・・」


次に、「関西弁ニーチェ先生の授業」


ニーチェ先生「そもそも<客観>なんかあらへん。カオス(混沌)とその解釈(認識)があるだけや。より『正しい』認識や、より『不完全な』認識なんかあらへん。力をもったもんに都合のいい認識と、弱いもんが強いもんに対抗して立てる認識があるだけや。ぼくは、<主観/客観>図式なんか疑ってかかる。」


生徒「ニーチェ先生、客観なんかなくてカオスの解釈しかないんやったら、どうして、『2×2=4』のような『確実なもの』の経験があるんですか?」


ニーチェ先生「それは、『確実なもの』と『あいまいなもの』が同居しているからや」


 このように、<主観/客観>図式から出発するかぎり、論理的に必ず極端な「決定論」か、極端な「相対論」に行きつくことになります。 


 ニーチェ先生の考えを徹底して考えつめ、<主観/客観>図式を乗り越えたのがフッサールの現象学なのですが、それについては、また次回以降(^^)