
最近はめっきり
コンテキスト(文脈)のプラニング
について思考を巡らせています
そんなことを考えて本屋さんとか図書館を
巡っていたら上の三冊に出会いました
私が好きな小説家のひとたち
伊坂幸太郎、村上春樹、重松清
このお三方の文脈という名の物語について
興味深く綴っています
その中の特に自分が
はっとした
箇所を抜粋しておきます(備忘録として)

重松清さんより
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僕の場合、読者からの手紙で多いのが
「思い出した」というフレーズです。
「少年時代を思い出しました」とか
「死んだ母を思い出しました」とか
だから普段は忘れていても、小説を読むとか
何かのきっかけでふと思い出す。
悲しい思い出ややすせなさに包まれるけれど、
それはとても幸せな体験だって。
だから、お礼を言われちゃう。
>>
僕は「同感」してほしくないんです。
同感は、答えに対する同感なんだよね。
僕は
「共感」してほしいんです。
共感は「共に感じる」とか、「問いが共有できる」
だから「同じように困っているいるよね、僕たちおじさんは」
ってところから一緒に出発して、僕が小説で出した解答と
読者の解答が違っていても構わないけれど
「出発点は同じだよね」というところを持っていたいな
>>
読者からの手紙という点では村上春樹は
こんなことを言っています
(以前も書きましたが)
>>
ときどき年若い読者から長い手紙をもうう。彼らの多くは
真剣に僕に向かって質問する。
「どうしてあなたに、私の考えていることがそんなにありありと正確に
理解できるのですか?こんなに年齢も離れているし、これまで生きてきた
体験も全然違うはずなのに」と。
僕は答える。
「それは僕があなたの考えていることを正確に理解しているからでは
ありません。僕はあなたのことを知りませんし、ですから当然ながら、あなたが
何を考えているかだってわかりません。もし自分の気持ちを理解してもらえたと
感じたとしたら、それはあなたが僕の物語を、自分の中に有効に取り入れることが
できたからです」と。
仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。
物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は
目に見えるものになる。 >>
重松清も村上春樹も共に読者に答えを委ねているというか
読者との距離感をわかっているからこそいえる言葉だなって
小説について村上春樹はこうも言っています

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(前段にジャスピアニスト(セロニアス・モンク)の引用をうけて
「新しい音(note)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。
すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音に
しっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。
気がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ」)
小説を書きながら、よくこの言葉を思い出す。
そしてこう思う。
そう、新しい言葉なんてどこにもありはしない。
ごく当たり前の普通の言葉に、新しい意味や、特別な響きを賦与
するのが我々の仕事なんだ。
と。そう考えると僕は安心することができる。
我々の前にはまだまだ広い未知の地平が広がっている。
開拓を待っている肥沃な大地がそこにはあるのだ。
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小説を書くということは、つまり物語を作るということであると
考えています。
物語を作るというのは、自分の部屋を作ることに似ています。
部屋をこしらえて、そこにひとを呼び、座り心地のいい椅子に座らせ
おいしい飲み物を出し、その場所を相手にすっかり気に入らせてしまう。
そこがまるで自分だけのために用意された場所であるかのように、相手に
感じさせてしまう。それが優れた物語のあり方だと考えます。
>>
僕の小説が語ろうとしてことは、ある程度簡単に要約できると思います。
それは
「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、
それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかった
としても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。
にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。
そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」ということです
そして最後に伊坂幸太郎の言葉
震災後の心が疲弊した状態から

>>
三月下旬、まだ小説を書く気分にはなれなかったにもかかわらず、
何とか日常に戻ろう、と喫茶店でパソコンを叩いていたのだけれど
すると以前も会ったことのある男性が寄ってきて
「こんな大変はことが起きちゃったけど」と言った。
「また楽しいのを書いてくださいね」
うまくは言えないのだけれど、その時、僕は「ああ、そうか」と
思うことができた。
「僕は楽しい話を読みたいんだ」と気付かされた
もしくは、ネットに溢れる原発事故に関する情報に疲弊し、
「情報は僕を救ってくれない」と思ったことも関係しているのかも
しれない。さまざまな情報が世の中には氾濫している。
本当のことも多いのかもしれない。ただ、だからといって
震災以降の情報で、「知っておいて良かった」と癒されるものは
ほとんどなかった。むしろ心がくたびれ、陰鬱な気持ちになるものが
多く、まったく情報を気にせず生活をしていた人と僕とでいったい
何の違いがあったかといえば、僕のほうが不安でおろおろしていたという、
それだけのことではないか。
それならば、と思う。
それならば、
小説を読んでいたほうが豊かな気持ちになれたのではないか。
開き直りではあるけれど、
フィクションにも価値があるのかもしれない、
とその頃から少し思うようになった。
>>
自分が好きな作家の思うことや世界観を知ることは
そこに求める自分の物語を知ることにもつながる
重松清さんの
「共感」村上春樹さんの「物語を作る=自分の部屋を作る」
そして探し続ける
旅の要素
伊坂幸太郎さんの「
ユーモアの価値」
なにか新しいものに触れるのではなく、
そのルーツを知ることこそが新しい発見なのだと
気づかされた本との出会いでした