宮内庁に商品などを納入している業者を、「宮内庁御用達」(くないちょう・ごようたし)ということがあります。

 かつて宮内庁(宮内省)御用達は制度になっていましたが、昭和29年(1954)に廃止となり、現在は制度そのものがなくなりましたが、今でも業者が非公式に「宮内庁御用達」という看板をかかげている場合があります。

 宮内庁御用達というのは皇室が長年愛用するブランドということになるので、その店には確固たる信頼が寄せられます。

 確かに安いものではないかも知れませんが、かといって特別に高いものではなく、良い物を適切な値段で扱っている店が宮内庁御用達の栄誉を受けてきました。

 皇室はおよそ2700年間、質素倹約をよしとしてきました。

 ヨーロッパや中国の王には絢爛豪華極まりない散財の逸話が多く残されているのと正反対です。

 ですから、皇室が愛用する品々は、一般消費者にとっても、良い物を長く愛用するための参考になるのではないでしょうか。

 宮中へ商品を納入する業者は、幕末までは「禁裏御用」(きんり・ごよう)と呼ばれていました。京都にある天皇の居所「禁裏御所」の御用を申し付けられる者という意味です。

 江戸時代中期の元禄14年(1701)には、宮中に出入りする商人や職人は286人を数えました。

 その職種は装束・扇子・履物・食器など身の回りの品から、野菜・魚・菓子・酒などの食料品、そして建物の修理に至るまで様々でした。

 禁裏御用の商人は、「御用」と書かれた提灯を下げ、御用札を掲げて、誇り高く御所に納めに行きました。

 禁裏御所の御用を務めるということは、その商人、職人にとってはこの上ない栄誉だったのです。

 皇室と禁裏御用の深い繋がりを示すエピソードがあります。

 足利将軍の時代に朝廷の財政が窮地に追い込まれ、天皇の食事も十分に用意できない時代がありました。

 その頃「川端道喜」(かわばたどうき)という餅屋の主人(初代道喜)がその様子を嘆き、毎朝天皇にできたての餅を献上しました。当時天皇は毎朝届けられる餅が楽しみだったと伝えられています。

 川端道喜の献上した餅は「おあさ」と呼ばれるようになりました。

 「おあさ」は六つほどを素焼きの皿に盛り付けられ、白木の三方に載せて、毎日毎日天皇に献上されました。

 江戸期には朝廷の財政は安定し、天皇が食べるものに困るということはなくなりましたが、朝廷は困窮期の恩を忘れず、川端道喜を禁裏御用として用い続けました。

 江戸時代以降、天皇は「おあさ」を見るだけで昔のように食べることはなくなりましたが、毎朝朝食前に餅をご覧になる「朝餉の儀」(あさがれいのぎ)、つまり儀式として宮中に残り、明治期まで続けられたのです。

 川端道喜はおよそ500年間、餅や粽(ちまき)を御所に納め続け、現在も京都に店を構えています。
(ただし、「川端道喜」は「しんぶん赤旗」に広告を掲載したことがあり、私としては強く警戒をしています)

 明治2年(1869)に明治天皇が東京に御移りになると、京都・大阪に暖簾を構える禁裏御用の商人たちは困りました。

 この時、川端道喜は東京に移り住みましたが、東京では餅が売れず、京都に戻り店を続けました。

 また御所に菓子を納めていた「松屋」は京都に残る道を選び、現在も京都で店を営んでいます。

 一方、同じく菓子を納めていた「虎屋」は明治2年に店主の兄弟を東京に派遣して御用を継続し、明治12年(1879)には店主も東京へ移り住みました。

 現在虎屋の東京赤坂本店は、皇族方の御殿が並ぶ赤坂御所の目の前にあり、今も宮中に和菓子を納め続けています。

 明治期になると、宮中でも洋式を取り入れるようになり、洋服・洋傘・洋食器・洋菓子などなど、西洋の品物を扱う商人が宮中の御用を申し付けられる機会が増え、御用達の業者の数が急増しました。

 すると、宮中御用であることをみだりに宣伝に用い、また御用達であると偽って商売をする業者が現れるようになりました。

 そこで宮内省(宮内庁の前身)は明治24年(1891)、「宮内省御用達制度」を正式に発足させ、一定の基準を設け、それに適合する業者に「宮内省御用達」と称することを許すことにしたのです。

 しかし、その後も御用達の表記を濫用する業者が後を絶たず、警視総監は御用の濫用を禁止する論告(ろんこく)を出し、取締りを強化しました。

 それだけ「宮内省御用達」という表記は商売上重宝するものだったのです。

 昭和10年(1935)になると、御用達制度が大幅に改正され、許可の基準がさらに厳しくなりました。

 5年以上宮内省に納入を続けている業者であることが条件となり、様々な報告の義務が課され、「宮内省御用達」の称標(しょうひょう)の使用に5年間の期限が設けられ、その上、許可証の発行に当たっては、称標を広告などに濫用しないよう厳重な注意が与えられました。

 終戦後、宮内省が宮内庁に変わったことで、「宮内庁御用達」となりましたが、昭和29年(1954)、御用達制度が廃止され、現在に至ります。

 御用達制度が廃止された理由は明確にされていませんが、商業活動の機会を均等にさせるなどの意図があったのではないでしょうか。

 このように現在では、御用達制度そのものがなくなってしまっているのですから、正式に「宮内庁御用達」を名乗ることはできません。

 しかし今も街中で「宮内庁御用達」の看板を目にすることがあります。

 これはかつての御用達制度の名残なのです。

 宮内庁としては社会通念上不当な表示でなければ黙認しているようです。

 しかしながら、宮内庁に商品を納入しながら、そのことを外部に公表していない業者はたくさんあります。

 宮中の御用を仰せつかっていることを、商売の材料にして宣伝に用いることは、はしたないことであり、憚らなくてはいけないという共通の認識があるようです。

 ここでは、江戸期以前から宮中の御用を務める業者をいくつか紹介することにしましょう。(中には既に御用をしていない業者が含まれている場合がありますが容赦願います。)

 和菓子では、既に紹介した「虎屋」は約500年間御用を務め、現在は正月元日に両陛下がお召し上がりになる「菱はなびらもち」などを、また「川端道喜」も約500年間御用を務め、今は「御所ちまき」を、そして「俵屋吉富」は江戸期から和菓子を納めているといわれています。

 その他の食品では、「麩嘉」(ふうか)が150年間生麩を納め、「松前屋」は600年間昆布製品を納めています。

 次に、明治以降に宮内省御用達の認定を受けた主な店をいくつか紹介します。

 食料品では和菓子は「塩瀬総本家」が饅頭など、「たぬき煎餅」が煎餅、「清月堂本店」が勤労奉仕団に下賜される菊紋入りの菓子(昭和初期)や羊羹など、また洋菓子は「コロンバン」がビスケット、チョコレートなど、「文明堂」がカステラ、その他にも「キッコーマン」が醤油、「千疋屋」が果物、「山本海苔店」が海苔、「マルカン酢」が酢、「小黒米店」が精米などをそれぞれ納めています。

 またお清酒は「惣花」(そうはな)、「櫻正宗」(さくらまさむね)、「菊正宗」(きくまさむね)、「月桂冠」などが用いられています。

 また食品以外では、「大塚製靴」は明治15年(1882)に明治天皇の靴を制作して以来、靴の御用を務め、「オーベクス」(旧:東京帽子)は昭和天皇の中折帽(なかおれぼう)を3回制作、野うさぎの毛を使用し、製作に当たり主人が斎戒沐浴(さいかい・もくよく)を行ったといわれています。

 また、「ミキモト」は大正13年(1924)から御用となり、装身具を納め、「田屋」(たや)(東京・銀座)は昭和天皇・今上天皇を始め多くの皇族方にネクタイを納め、「タニザワ」(東京・銀座)は戦前から宮中に鞄を、「宮元商行」(東京・銀座)は明治後期以降に銀製品を、「山田平安堂」(東京・猿楽町)は昭和初期以降に漆器を納めています。

 ところで、英国では今も御用達制度は健在です。

 英国王室御用達のことを「ロイヤル・ワラント」といい、エリザベス女王二世、エディンバラ公、チャールズ皇太子の三方に定期的に物品やサービスを収める個人や企業に与えられます。

 現在、ロイヤル・ワラントを保持する個人・企業は約900あります。

 ロイヤル・ワラントを受けるには、王室に3年間無料で提供し、御用達委員会で品質が認められ、そして王族による最終認定を受けなくてはいけません。

 認定を受けた業者は、5年間、ロイヤルアームス(紋章)を「バイ・アポイント」(御用達)の文字と共に使用することができ、5年ごとに更新されます。

 故エリザベス皇太后を含め、4つのワラント全てを保持する業者は7件のみです。



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