天皇の生活空間は、昭和初期までは「御内儀(おないぎ)」と呼ばれ、男子禁制とされていた。

 御内儀に仕える女性のことを女房または女官(にょかん)という。

 幕末まで御内儀には一人だけ「御差(おさし)」という役の女官がいた。

 御差には他の女官にはない特別な任務が与えられていた。

 その任務とは、天皇の御東司(おとう)(便所)のお供をすること。

 そして、それだけが御差の唯一の仕事だった。

 天皇がお一人で御東司に御出ましになることはなく、御差は常にお側に待機していなければならない。

 深夜であっても必ず御差は起こされる。

 御差の名前が呼ばれると、それは御東司の合図なのである。

 大勢の女官のなかでも、天皇と話ができるのは一部の高等女官に限られるが、下級女官の中では御差だけが天皇と話をすることが許されていた。

 そして天皇と御差の会話は弾むことが多かったという。

 高等女官は身分の高い家の娘に限られたが、御差は身分が低くても上がることができ、型にはまらず他と毛色が違っていたようである。

 また密室を共有することもあってか、天皇も御差にだけは舌が滑らかになり、御差と親しくなることが多かったと伝えられている。

 幕末の嘉永(かえい)年間、孝明天皇の御差を務めたのは桂宮の諸大夫、生島成房(いくしま・なりふさ)の娘の駿河(するが)だった。

 御差は天皇と親しくなろうとも、天皇の子を産むことは許されない。

 よって、天皇と御差の只ならぬ関係は御法度で、御差に選ばれるのは老女と決まっていた。

 嘉永7年(一八五四)に駿河は56歳、孝明天皇は22歳だった。

 天皇の御褌(おふんどし)を外すのは御差の大切な役割である。

 天皇は正絹で作られた六尺の綺麗な褌を身に付けておいでだ。

 天皇が纏った褌は、一度取り外すと再び使われることはない。

 なぜなら、褌は穢(けが)れるため、もし穢れた褌を玉体(ぎょくたい)(天皇の御体)に付けると、玉体が穢れ、国家が穢れると考えられたからである。

 褌の穢れは洗っても祓われないとされ、天皇には毎日新品の正絹の褌が献上され続けた。

 そして、御差の役得は何とその褌だった。

 褌は洗って紋付羽織などに仕立てられた。

 ということは、京都の町には天皇の褌を纏って歩く者がいたことになる。

 何も無駄になることはなかった。

 だが、褌に関するこの逸話は長い間公にされなかった。

 この話は摂家の御側役(おそばやく)を務めた下橋敬長(しもはし・ゆきおさ)により語られたもので、談話の記録が収録された『幕末の宮廷』(東洋文庫)が昭和49年に公刊され、歴史に記録されることになったのである。

 近代以降は天皇に毎日新品の肌着が献上されることはなくなった。



(『月刊食生活』食生活 平成23年6月号 連載「和の国の優雅な生活」に寄稿した記事です)

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