皆さんこんにちは。
本日は、「賛同を求めすぎてはいないか」というテーマで書き留めたいと思います。
人間誰しも判断に迷ったときは、他者の意向が気になりますし、自分の意見に賛同をもらえれば力強いと感じます。特に結果が伴わないとき、あるいは結果を出せるかどうか不安な時には尚更ですよね。
でも中には、常に身近にいる他者の賛同がないと不安で前に進めないようなタイプの人間もいます。自分自身で結果を背負うことの恐れがそうさせているのでしょうが、それではあまりにも自我が無さすぎるのではないかと思ったりします。そういう人間に限って、自分の調子がいいときには、周囲の見守りの目には全く気が付かず、自分で事をなしえたと勘違いしたりします。周囲の人間は「保険」ではないんですけどね・・・。
料理人の笠原将弘さんの講演を聞く機会がありました。
ご自身のお店を出して、現在「予約のとれないお店」になるまでのご苦労などをお聞きしましたが、その中で、「料理は好みがあるから色々なご意見があっていいと思う。9割の方に賛同いただけなくても、1割の熱狂的な美味しいと言ってくれる支持者がいるような店を創りたい」と言われていたことを思い出します。
そこには、笠原さんのご自身の料理に対する自信とともに、妥協することを許さない強さを感じます。良しも悪しも、自分の料理そのものを評価して欲しいという達観すら感じるのです
妥協することがすべて悪いわけではありません。政治の世界でも、自分の考える政策を実現するには、大同小異で連立を組まなければならないし、それも社会的な責任の一つでもあるかもしれません。企業内でも同様なことはあるのでしょう。
しかしながら、自分の役割を全うするために「妥協」ばかりしていたら、何がその人に与えられた本当の役割なのか、その人の個性を本当に活かすことができるのか、私は疑問に思います。増してや常に他者の賛同を得ないと不安でしょうがないのだとしたら、誰の何のためにその人は生きているのか、企業人である前に考えなければならないことなのだろうと思うのです。
あるラジオの人生相談の話をききました。会社や世間での適応が難しいので自分の性格を変える努力をしたい、という相談だったのですが、相談者は50歳中盤で、家族の養育も無事に終えてまじめに働いている方でした。アドバイザーは、次のように言われたのです。
「あなたが20代や30代であれば、世間に合わせる努力も必要かとも思うが、自分の年齢と現在の環境を考えれば、世間に合わせなければいけない道理がどれほどありますか」
私も全く同感でした。自分のわがままや障害ゆえに、常に周囲との軋轢を生んでいるのならば改善が必要でしょうが、与えられる環境は、好ましい場合もあれば腐った環境である場合もあります。運不運、向き不向きで考えて判断しても決して間違っていないと思うのです。
1割の熱狂的な支持者を得られるような、素直で愚直な生き方を私も見習いたいと思います。
最後までお読みくださり、どうもありがとうございました。
2024.6.22 #344
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