皆さんこんにちは。

本日は、「「共通善」の考え方」というテーマで書き留めたいと思います。

 

「共通善」とは、「一部の個人または社会などの私的な対象に利益をもたらすものと比較して、特定のコミュニティのすべてのメンバーに利益をもたらし共有されるもの」と定義されます。この共通善が実現するためには、個人は集団の利益に対して、何等かの行動や犠牲を払うことが必要となります。

 

企業であれ地域コミュニティであれ、個人が集団に属して集団の利益を享受する場合には、個人は何らかの協力をすることが当然だと思います。

国家単位であれば、国防はもとより警察・消防のような行政や、国民の意思を代弁し社会を維持・変革する政治などの機能を維持するには、納税を通して協力することは国民の義務であると思います。

私企業であれば、社員は各企業の経営理念に基づき、就業規則をはじめとする各種ルールを順守することで、構成員としての存在を認められることになります。

 

 

ただどの組織においても、共通善となる基準やルールを、すべての具体的な行動ベースで文字にすることは不可能で、抽象的・包括的な表現にならざるを得ない項目も多くあるかと思います。逆に、すべての行動基準を文字にしてしまえば、一人一人の個性まで死んでしまい、個の人間の特性を認めないような偏った契約になってしまいますので、組織活力や面白さもなくなってしまいますね。

 

そうすると、個人の個性・特性が共通善に照らして妥当かどうかの判断をすること、常にこのテーマを我々は背負わなければならなくなります。

私の経験では、人間関係で信頼が崩れる場合には、この判断基準が大きく異なることが原因であるような気がします。「組織のため」という御旗のもとで、あまりにも特定の個人が特別な犠牲を払わなければならなくなるような場合などはその典型でしょう。

 

でもそれ以上に私が思うのは、たとえ共通善の捉え方にギャップがあったとしても、いかに他者に対して他者のことを考えて言葉を発するか、いかに他者のことを考えた態度を示せるか、という良識・配慮こそが問題なのだということです。

 

この良識や配慮がなければ、教科書的に正しい共通善であっても、攻撃されたと感じている個人がその「とげとげしい共通善」を受け入れることは難しいのではないでしょうか。

 

現在、心理大学院の学びの一つとして、「自己愛」についての色々な論文を読んでいます。誰でも自分のことを正しく承認して欲しい、という欲求を持っていますが、環境に対する無配慮な自己愛、あるいは環境に過剰適応してしまうことによってしか守れないような自己愛は、自他ともに問題を起こしてしまいます。

 

「共通善」を考える際に、どれだけ他者の顔や思いをその背景に思い描けるか、それが個人に求められている責任なのではないかと思います。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。

2024.3.17 #331

 

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