皆さんこんにちは。

本日は、「自分の信念の持ち方」というテーマで書き留めたいと思います。

 

「信念を持つ」ということは、通常は褒められる表現の一つだと思います。「様々な困難に負けず、自分自身にも負けずに信念を貫いて勝利をもぎ取った」みたいなことに使われますよね。

自分に負荷を掛け自分を磨きあげるような姿勢は、美しいものだと私も思います。けれどもその信念が、他者を巻き込む環境での自分の目標だったりするときには、自分のこと以外にも考えなければならないことがあると思います。

 

チームスポーツもその例にあげられます。例えばバスケットボールの場合でいえば、チームの中で一番技能が優れている人間がポイントを取れるように周囲が合わせるのは原則だとしても、全ての点数を一人の人間が取るわけではありません。ポイントゲッターが囮となって仲間にアシストすることができれば、チーム全体の得点能力は上がります。一方、「勝利」という信念は、結果として勝利すれば信念は貫いたことにはなるのでしょうけど、同じ勝利でも、どう勝つか、それが大切なのだと思います。

 

仕事も同じです。仕事は成果を出せなければ、いくら一生懸命やっても評価されません。「成果を出す」という信念が大切です。でも、「自分と他者は違うし、どうせわかり合えないのだから自分の都合のよい解釈をし、自分の都合のよい対応をする」という姿勢でその信念を貫くとしたら、私は「愚かな信念」であると思わざるを得ないのです。

 

 

誤信念課題というのがあります。別名はサリーとアンのテストとも呼ばれています。

 

  ここに「かご」と「箱」があります。

  サリーはアンが見ているところで、ビー玉をかごに入れました。

  サリーがお散歩に出かけた後、アンはかごからビー玉をとりだして、

   箱に入れました。

  戻ってきたサリーは、ビー玉で遊ぼうとします。

  さて、サリーはかごと箱のどちらを見るでしょうか。

 

私たちは当然に、サリーは「かご」を見る、と判断するのですが、3歳児では、サリーの状況や気持ちを読み取ることができず、自分の知っている世界で判断して、「はこ」と応えることが多いとのことです。

こどもの場合は別として、自己中心の「愚かな信念」に囚われてしまうと、『「はこ」が正しい、なぜなら自分が知っている世界が正義なのだから』と考えてしまいがちです。

 

たまたま最近、こういうことを考えさせられることがありました。自分はその曲がった正義の剣で刺された方なのですけど、では自分自身は、そういう剣で他者を刺していることはないだろうか・・・ 自戒を込めつつ、自分の信念を貫きたいと思いました。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。

2021.9.25 #204

 

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