皆さんこんにちは。

おかげ様で、私のブログも200回目となりました。

いつも心に留めていただき感謝しています。

 

本日は「キャリア自律について」というテーマで書き留めたいと思います。

 

「キャリア」の定義には色々なものがあります。一般的には、ステータスが高い職業のことを指したり、出世街道をひたすら走る人のことを指したりしますが、広い意味では、過去から現在、そして未来に対して、自分の人生全般にわたる生き様であると考えます。時間という縦軸と、職業人、子ども、親、市民などの色々な役割を果たす横軸の2軸で自分らしく生きてきた証そのものを指す言葉だと考えます。

 

ですから、キャリアには勝ち負けがあるわけではありません。もしあるとしたら、自分が与えられた能力や個性を活かしきっているかどうかだろうと思います。

 

 

こういうキャリア論を他者とシェアするような機会もあるのですが、残念なことに誤解して捉えられてしまうこともあります。

「自分が与えられた能力・個性を活かすのだから、やる気の起きない仕事はやらない。それがキャリア自律でしょ。」のように考えてしまい、それが偏ってしまうようなケースです。

 

そもそも「自律」というのは、自分勝手に考えることではありません。自分自身の可能性や限界を謙虚に把握し、今おかれている環境の中で、どれだけ自分のできる範囲でのパフォーマンスを発揮できるか、等身大の自分を見極めて対応していくことです。ですから、そこには自分の価値観だけではなく、組織や環境の価値観も同居していますから、やりたいことをやる「権利」もあれば、組織人としての「義務・責任」も存在しますので、折り合っていくことが本当の自律なのです。

 

E・フロムの『自由からの逃走』の中に、中世の宗教的、あるいは階級社会の伝統的な慣習から脱却し、市民としての独立を目指す姿が書かれていますが、一方でその独立を勝ち取った階層市民が直面したことは、「自由」という拠り所の無い実態に対しての大きな不安であったとも書かれています。自由であるということは、その権利だけでなく、背負うべき市民としての義務や責任も、自らが発見し果たしてしていくことだと気が付くのです。

 

キャリア自律も私は同じだと思います。

本来の自分の責務を抑圧し、青い鳥症候群のように好き嫌いだけで彷徨うあり様は、キャリア自律とは程遠い姿なのだ感じます。そういう他者の姿に意見する前に、まずは現在の自分を見つめて猛省したいと思います。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。

2021.8.28 #200

 

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