皆さんこんにちは。本日は、「「心の利き手」と社会生活」というタイトルで書き留めたいと思います。

 

前々回にしのぶかつのりさんのお話しを紹介させていただきました。「扁桃体」という心のアンテナが敏感な人は、刺激を繊細にキャッチできるが故に、楽しいことだけでなく辛いことも過敏に受け止めてしまい、生きづらさを感じてしまうこともある、というお話しでした。

 

最近も他者との協働作業をする上で残念なギャップを感じたこともあり、自分自身を振り返って考えてみました。周囲の環境が特別なのかどうかは別として、自分自身の受容体としての感度はどうなのだろうと。

 

そう考えると、自分の受容体としての感度は、ベースの強弱というよりも、結構偏りがあるのではないか、ということに気づきました。扁桃体は、そもそも遺伝子レベルでの特性と、幼少期の経験からくる教訓みたいなものをベースに、刺激に対する快・不快を捉えていきます。無意識な要素の方が大きいのでしょうが、意識できる部分だけでも自分自身の快・不快の基準を考えてみると、「快」の部分も「不快」の部分も、結構伝統社会の慣習とか人格的な要素に対する動機が大きくて、逆に論理的正解とか数字の世界の検証といった面は、どうしても動機としては薄いものとなっています。

 

もちろん社会生活をする上で、双方の要素はどちらも大切であり、とくにビジネスに関わる上では、論理思考や数値管理は必須の要素ですので、自身の扁桃体の快・不快だけで企業人として生きるわけにはいきませんが、私が社会生活の上で必要以上にギャップを感じているのだとしたら、やはり深い部分での価値観(=心の利き手)の強弱が原因なのではないか、そのように考えました。

 

中国の古典で孔子のいう「君子」は、仁・孝・悌・礼、つまり、他人への思いやりがあり、父母や年長者に仕え、伝統の儀礼に従った生活を送る人間、そしてそれらを常に習得しようとする謙虚さを持っている人間のことを指すようです。私も非常にこのような人間像を是とする思いが強く、たとえ社会の中で上位の地位を得ている人間がいたとしても、仁・孝・悌・礼を備えていなければ、全く魅力を感じません。簡単に言うと、「著しく内省の欠けた自分本位の人間」に対しては、たとえ能力があっても信頼を置けないのです。

 

社会生活をする上では、様々な人間がいますので、場合によって自分の価値基準を調整したり封印したりすることも大切です。自分も、「魂」を売ったと思えるようなことも、過去にはありました。でもその調整にもそれなりの労が掛かります。バネを伸ばし過ぎると戻らなるのと同じで、どこかで踏ん張っていなければなりませんから。

 

役割・役職ということも含め、立場の仮面を被り続けている自分自身に対し、もうそろそろ仮面を取ってあげたい、というもう一人の自分もいます。けれども、仮面は自分だけで作って自分だけで被っているわけでもないです。協力者もいれば、期待してくれる人もいます。

仮面を取り去るタイミングを間違えず、環境と自分自身を準備していくことが大切なのだと思いました。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。

2020.5.30 #082