皆さんこんにちは。
本日は、「内観をすること」というテーマで書き留めたいと思います。
今回もティモシー・ウィルソン氏の「自分を知り、自分を変える」という書籍を読んで考えたことになりますが、単に「自己理解が大切」といっても、どうやって自己理解を深めるのか、その手段は難しいですよね。現在では、色々なアセスメントも出されていますので、それらを積極的に活用するのも一つですが、従来より「内観療法」というものも注目されてきました。
内観とは、あらかじめ人の意識的な注意が向いていなかった思考や感情を照らす懐中電灯のようなもので、フロイトの理論でいえば、普段は心の中に無いけれども、意識しようとすれば思い出せる「前意識」の部分に光を当てて、自分自身の本当の姿をさらに捉えようとするものです。しかしながら、懐中電灯も限界があって、性格特性などの適応的無意識の内容になると、その光は届かない、と著者は言っています。
では、どうしても光が届かないのであれば内観をしても無駄かというと、そういうわけではありません。精神的に平常時、またはポジティブに物事を捉えられているときには、そもそも内観を行おう、という衝動は起きにくいでしょうが、様々な理由からネガティブになり悩んでいるような場合、自分のどの部分が不足していたのか、どのように改善すれば事態はうまくゆくのか・・・そのことを何度も何度も反芻してしまいがちで、それも自分自身に否定的になり、思考が悪循環してしまったりします。
そういう時の内観として、トラウマ的になっている出来事を内部に溜めておくのではなく、外部に表現する機会を作り、反芻している際に生じている一種の「抑制」を取り払ってあげることが有効のようです。
それも外部に発する際は、自分の問題をなるべく客観的に見て、自分にとっての意味のある物語(ストーリー)として発信することが大切だそうです。ポストモダンの社会構成主義でいえば、事実は一つではなく、人間の認知の数ほどあるのです。ですから、たとえ本人にとって辛いことでも、将来に対して意味のある辛さであると思えるなら、その事象には生きる上で必要なことがらの一つとなり、その試練を受けて立つことが将来の勝利の方程式にもつながり、ひいてはこの内観自体はカタルシス(=魂の浄化)と変わります。
あまりにも自分に都合のよいストーリーにしてしまっては、内観本来の趣旨に反してしまいますが、ネガティブな思考の悪循環を繰り返すと抑うつが強まり、客観的な事実ですら自分の曇った眼でかすんでしまいますので、多少は緊急避難的に自分を擁護するくらいのスタンスで、意味づけをする精神作業が大切なのではと。そして、そのストーリーは、自分のストーリーでありながら、客観的に自分自身がフィードバックできるものとしたいですよね。
私自身は、苦しいこと、辛いことが生じたときには、ついつい引きずってしまうことが多いです。特に週末にそういう出来事があると、休暇中も気持ちが冴えず、眠りも浅くなったりしてしまいます。
本日学んだ内観作業、すなわち内省を通した自分自身の人生の中での意味づけを、今後は丁寧に行っていこうと思います。
最後までお読みくださりありがとうございました。
2020.5.17 #078