皆さんこんにちは。

本日は、「夢は自動的に与えられるものではない」をテーマに書き留めたいと思います。

 

この連休は、全世界で直面している社会的な課題もあり、自主トレーニングや家族での外食などのミニ行事はあったものの、基本的には家の書斎で、人間発達科学分野に関する大学院の勉強をしていました。

 

人間は、時によって、行為と意識が融合するような「フロー状態」になることがあります。活動の最終的な結果やそこから得られる金銭的報酬、賞賛といった外発的な利益とは全く無関係の、それをすること自体が報酬となるような、そんな自己目的的な活動を自然としていることがありますね。仕事の上でも、また余暇のスポーツの上でも、多かれ少なかれあるかと思います。

 

でもそのようなフロー状態を常に保つことは不可能で、通常は、行為と意識は分断され、あるべき自分とありたい自分も一致せず、社会的要請に従った仮面を上手く被ることにより、現実対応しているのが通常なのだろうとも思います。

 

私自身、社会生活を円滑に行うために、意識化した仮面を被りつつ、それが一種の定めであり将来への必要なプロセスであるとも受け止めていますが、本当にそういう八方美人的な対応が、果たして自分にとって正しい選択なのだろうかと、本日は自分自身を振り返っていました。

 

人間の命は有限で、神様に与えられた定めを全うしようにも、そのスケジュールを人間自身が書き換えることはできません。

私はいままで、生涯現役主義で、現在は衰えてきたとはいえ、知力・体力もまだまだ若い世代には負けないという自負もあり、定年後は現在の会社生活を離れて、自分自身の思い描く夢に邁進するイメージを持ち続けているのですが、そういうチャンスが本当に自分の勝手な思い込み通りにやってくるのか、そんな予定調和が自分の計画通りに起こり得るものなのか、今一度再考する必要もあると思ったのです。

 

加齢とともに、病に陥る確率も上昇します。気力も現状と同様に将来も維持できるのかどうか。体力も、現在は20歳代の若手とガチでバスケットコートで練習していますが、それも自ずと限界がくるのだろうとも思います。人生の予定調和が起こる前提で、社会が与えてくれる区切りを待つことが、あるいは大きな変化がくることを待つことが、本当にいまの自分に求められていることなのだろうかと考えると、何が正しい選択なのか分からなくなりました。

 

現在の世界が直面している問題が、自分自身への焦りを増殖させているのかもしれません。また、現職に対する自分自身の召命観が、くすんだ目で見ているために、必要以上に揺らいでいるからなのかもしれません。

いずれにしても、「心うち込めるもの」「他者の利益と幸せ」に繋がる生き方ができなければ、そもそも今を生きる人間として失格ですので、そこだけは棚上げせずに向き合いたいと思います。

 

軸足の定まらない自分に恥ずかしさを感じます。でも、その迷いを持ちながら学びを継続していること、そんな不器用な自分をちょっと応援したくなったりもしています。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。

2020.3.22 #063