こんにちは。

本日は「他者理解の難しさ(その2)」と題して書き留めたいと思います。

 

同タイトルの前回は、「他者理解はできるはず、他者も自分自身のことを理解してくれるはず」という私の思いに対し、自分自身の偏った姿勢を反省した旨を書かせていただきました。

 

でも、その後、自分自身はどうしてこのことで辛くなってしまうんだろうと、ずっと考えていました。最近、その問に対する一つの答えに達したのですが、理解ができていないのではなくて、理解はできているが、「その価値観の相違を受け止められない自分がいる」、ということなのかもしれない、ということです。

 

もし価値観や生きる基準が解離していて、不幸にも強引に価値観を押し付けられたりすれば、それは武装した人間に対して生身で立ち向かうようなものですから、それは出血してもやむを得ないものだと、妙に納得するところでもありました。

 

昔学んだ聖書の言葉で、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」とどうして言えるだろうか」というものがありました。

心の中にある汚れによって、他者を違えて見るようなことのないよう、まずは自分自身を律していきたいと思います。

 

そして、人間の評価は、当事者や傍観者の気まぐれな基準や「価値観の違い」みたいなライトなものによるのではなく、長い間にわたる真摯に他者を理解しようとする思いと行動を通した「信頼」こそが、大切な評価のポイントになると改めて感じています。

 

武器ではなく、言葉でも人は殺せます。

 

他人のことをとやかく言う前に、自分自身の言葉を振り返りたいです。

でもその内省により、役割を演じすぎて自分らしさを萎縮させてしまっている姿に気づくことになってしまうのであれば、やはり勇気を持って環境変化を決断すべきなのかもしれないとも思っています。

 

スティーブジョブスは、スタンフォード大学の卒業式のスピーチで次のようにメッセージを残してくれました。

「あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。」

 

最後までお読みくださりありがとうございました。

 

2020.2.27 #054