皆さんこんにちは。

本日は、「他者理解の難しさ」をテーマに書き留めたいと思います。

 

先日、酒を飲みながらある方と話をしていました。私は、その方のことはある程度は理解していると思い、自分の思いも開示しながら理解の共有を図ろうと思ったのですが、結果的には逆に溝が深まるような形となってしまいました。

 

まず私は、自分自身に反省しています。

「他者と自分は、育ってきた環境も思考も異なるが故に、他者も自分と同じように感じて考えるだろうという希望を持つことは危険である」ことを、座学の上では学んできているにも関わらず、やはり十分理解できていなかったのです。

「理解できているはず、理解してくれるはず」という妄想を持っていた自分自身の甘さに、反省しきりです。

 

もう一つは、溝が深まるほどのきついキャッチボールをしたので、心の古傷から出血したような感じになってしまいました。痛みも感じています。とりあえず止血して、少し養生しなければと思っています。

 

話は変わりますが、上記の点では大変ありがたいことに、傷をいやせるようなとてもうれしい機会が昨日ありました。

もちろん当初より予定されていたイベントなのですが、昨日、中学・高校のバスケットボール部のOB会が開催され、懐かしい先輩、後輩のみなさんと、30年以上の時を超えて集い、お話しできる機会がありました。

 

面影は残っているものの、みなさんオジサンになっていて、楽しそうに歓談しつつ、でもきっといろいろなご苦労もされておられるのでは、とも感じました。

 

恩師にもお会いし挨拶させていただきました。私の席がちょうど恩師の隣だったこともあり、私の当時のプレイヤーであった頃のうれしい評価もしてくださいました。

その際に、私が現在も現役でプレイを継続していること、また当時と今ではプレイスタイルもバスケに対する考え方も異なってきたことを申し述べましたら、先生は、バスケットボールは、それぞれ関わる年代や経験により、プレイに対する考え方は変わっていくものだと、そっと私の意見に対し賛同してくださいました。

 

自分自身の成長が、年代相応に、また役割相応に正しく遂げられているか・・・

現在のところ、客観的に捉える自信はありませんが、周囲の環境を変えてみるのも成長にとって必要な手段であるのかもしれないと、最近の出来事を通じて考えたりもしています。

 

最後までお読みくださり、どうもありがとうございました。

2020.2.16 #051