横浜村の過去と現在
横浜は1859年(安政6年)に外国貿易のために日本で最初に開かれた港のひとつで現在人口377万人を抱える政令指定都市であるが、江戸時代末期までの横浜村は戸数わずか100戸足らずの砂洲上に形成された半農半漁の郷村であった
昔の横浜村は現在の大岡川の支流中村川の山下橋付近を付け根として海岸通り沿いに外海(当時は大海と呼ばれていた)と接し、みなとみらい線馬車道駅付近を突端に弁天通りで内海(当時は入海と呼ばれていた)となり、内海であった中華街の脇を通る中華街南門シルクロードに沿って中村川の前田橋付近のエリアであった 横の距離1700m・縦の距離300m程度の半島であった
<室町時代の地図>
室町時代の1442年(嘉吉2年)の文献に横浜村として描かれている この横浜村があった辺りは半島状に突き出ていて「宗閑嶋(しゅうかんじま)」と呼ばれ砂地と砂洲であった 「横」に伸びた「浜」これが横浜と名付けられた理由である
<江戸時代初期の状況と現在>
<江戸時代から入海の干拓状況>
入海の埋立の完成は吉田新田から始まり1654年に、横浜新田が1818年、太田屋新田が1853年と記されている
江戸時代末期において横浜村一帯は外国人居留地とされたことにより横浜村は無くなったが、このエリアに現在ある建物・風景・構築物を描いた
メルパルクとマリンタワー
横浜村の付け根で外海(大海)に面した山下橋付近に建っている
ホテルニューグランド
海岸通りに建つ名門ニューグランドホテルの向かいは山下公園で、公園の敷地は横浜村では外海であった
県民ホール
海岸通りに建つ県民ホールの界隈は横浜村で半農半漁で暮らしていた100戸程度の人々が住んでいた
日本大通り《ペリー提督横浜上陸地》
1854年(嘉永7年)アメリカのペリー提督が艦隊を率いて来航し横浜村で日米和親条約を締結するために上陸したエリア
【参考文献】ハイネの原画によるペリー提督横浜上陸の図
左の建物は運上所で現在の神奈川県庁になり、右の玉楠の木は関東大震災で焼失したが種子が残り現在同所に建つ開港資料館の中庭に顕在である
開港広場公園
開港資料館に隣接する開港広場公園には日米和親条約締結の地としてのモニュメントが造られている
横浜税関と神奈川県警察本部
横浜税関(横浜三塔のうちのクイーンの塔)と神奈川県警察本部の建つエリアは横浜村の突端付近にあたり外海の砂洲か海上部分にあたる場所である
ザ・タワー横浜北仲
横浜村の突端にあたる場所はみなとみらい線馬車道駅付近で隣接する横浜北仲ビルの建つ辺りは砂洲地であった
弁天通り
元町・中華街方面に向かう弁天通りの道の右側は太田屋新田として埋め立てられるまでは内海(当時は入海)であった
中華街南門シルクロード
中村川に向かう中華街南門シルクロードの右側にあたる横浜媽祖廟(まそびょう)等中華街は横浜新田として埋め立てられるまでは内海(当時は入海)であった
中村川に架かる前田橋
元町との境界にあたる中村川は入海の干拓と共に大岡川の支流の運河として江戸時代に造られ、この前田橋から下流にある山下橋辺りまでが横浜村の付け根にあたるエリアであった
なお横浜村が外国人居留地(関内)になった後、住民の方々は中村川対岸の元町地区に移転させられている
横浜村突端付近の横浜北仲ビルから付け根方面にかけての現風景