昭和のヌード撮影悲話 |  ライター稼業オフレコトーク

 ライター稼業オフレコトーク

 
アイドル記者を皮切りに、心霊関連、医療関連、サプリ関連、
コスメ関連、学校関連、アダルト関連、体験取材など様々な
分野の取材執筆をしてきました。
ここでは当時の面白かった話や貴重な情報、取材で思ったこと、
記事にできなかった裏話などを披露していきます。

 こんな芸名のAV女優たちがいた。河合奈保、三田寛美、二谷理恵、河合唯…当時の人気アイドルの名をもじった芸名だ。名前を似せたり、ちょっと本人の顔に似ているパーツがあれば、その様な名を付けて売り出すというのが流行っていた。それに騙されて、ヌードグラビア見たさにエロ本を買ったり、AVを買った青少年がどれほどいたことか…。

 その中の一人に松本伊代をもじった松友伊代がいた。彼女は私が唯一インタビューした偽名アイドルAV女優だ。取材前は名前を変な風に付けさせられたことに同情したものだが、すぐにそれは無用なことだと分かった。地味だったし個性もなかったので、そのくらいしなければ注目されない存在だったからだ。

 とりあえず話題性だけで1年もったけど、そっくりさんでデビューしなければすぐに干されていただろう。だから、あれはあれで良かったのかもしれないな。

 

 * * * * *

 

 それとは別に初ヌードを前にした女のコと話をしたことがある。

 スイートルームは高級ホテルの一室に使われるハイランクの部屋のことで、庶民がそうやすやすと泊まれるものではない。私も泊ったことはないが撮影関係者の一人として入ったことはある。某有名会社のアイドル誌のヌード撮影の時だ。

 

 

 ある売れない女性タレントの初ヌード撮りおろしが決まり、その部屋を使って撮影することになった。新人だった私の仕事は、撮影前日にそのコをホテルの部屋まで連れて行くだけで撮影には立ち会えない。それでも初めて入ったスイートルームは感激ものだった。たぶん一生入ることはないだろうなと自虐したが、本当に入ることができない人生を送ることになろうとは…。

 売れていない彼女も貧乏人なので、さぞかし嬉しいのかと思ったが、表情は暗かった。初めてのヌード撮影を前にして緊張していたからだ。

 

 しばらく二人で会話をしたのだが、彼女は好んで裸になるわけではないことが分かった。そこそこ綺麗なのになかなか芽が出ず、タレント事務所から「辞めるか、ヌードになって起死回生を図るか?」を迫られたうえでの決断だったのである。事務所にしてみれば。女のコはあくまでも商品であり、売れない子はヌードにするなどの賭けに出るしかないわけだ。

 

 それにしても彼女は嫌々ヌードになってでもそんなに芸能界に居座りたかったのか? 当時はまだヌードが抵抗のある時代だっただけに覚悟が必要だったろうし、周囲への理解も大変だったと思う。話題になればしめたものだが、話題にならなければただの脱ぎ損になってしまう。だから、彼女の決断には相当勇気がいったと思う。

 

 話をしながら目をウルウルさせていた彼女の姿が印象的だったのを今でも覚えている。まだぺえぺえだった私にはどうすることもできず、励ましたところで何ともならないので、何とか笑わそうと彼女の心を和ますしかできなかった。

 

 撮影が終わり、その後彼女は他誌でもヌードを披露していたが、それ以外の仕事には繋がることがなく、3か月後には縛られた姿まで披露していた。そして半年後には全く見かけなくなっていた。脱ぎ損だったわけだ…。悪く言えば使い捨て…。

 今は素人が平気でポンポン脱ぐ軽い時代になった。裸どころか性交を見られることにも抵抗がなくなっている。昭和の時代にヌードになるということは大変だった。だから、売れない女性タレントにさえスイートルームに泊まらせてやったり、そこで撮影をしたりしたのだ。もっともそこまでやってくれるのは、しっかりした名のある出版社だけだが。

 いつまで経っても売れないコは、エロ本会社のビニ本企画物で絡みをやって細々と食い繋ぐしかなかった。彼女がその後どうなったのかは分からない。ビニ本女優になってしまったのか、密かに引退したのか…。

 

 出来上がったグラビアを見たが、目が死んでいたように思う。乗り気でなければそうなるのは当たり前だ。彼女がブレイクできなかったのは当然の結果だったのかもしれない。嫌々ではなく、今の若い子みたい脱ぐことに抵抗のない軽いノリとヌードを好意的に受け入れてくれる環境があれば良かったのだろうが…これも時代だ。

 

[編集後記]

 今のグラビアは可愛い子が多いが、当時は脱げる美女が貴重だったのだ。