
東日本大震災を契機に日本国籍を取得したアメリカのドナルド・キーンの著作『足利義政・日本美の発見』(訳・角地幸男、中央公論新社、2003.1)を読む。表紙のカバーは萌黄色の地に金糸でトンボなどの模様を織った観世家所蔵の法被。キーンは、今日の日本の暮しに定着している文化の基底は、室町幕府の将軍・足利義政であると断言する。

日本の中心であった京都が応仁の乱などによりことごとく灰燼に帰した時代。裏切り・憎悪の殺戮と災害・飢饉・疫病が襲った百鬼夜行の時代。義政が住んでいた東山山荘の隣でも戦火が交わされていた。そんな地獄変の時代のさなかにいるにもかかわらず、義政は、能楽・茶道・活け花・作庭・水墨画・書院建築・連歌などの東山文化を開花させた。一人の男の破天荒な執着が日本文化の真骨頂を構築したのだった。

キーンは傍証の古文書を駆使しながら義政がそこに行き着く人生をたどっていく。引用される古文書はオイラの少ない脳みそを絞ってもとても理解できない。日本の古語に精通するキーンの造詣の深さに舌を巻く。
義政の父・足利義教(ヨシノリ)は相手のちょっとしたミスや気に入らないと残虐な厳罰を下した暴君のため、朝廷も庶民も戦々恐々としていたという文書が残されている。そうした背景もあり義教は、危機を感じた守護大名の謀略によって暗殺される。義政が8歳のときだった。

義政は政治家として無能、妻の日野富子や側近に丸投げいう批判に対して、キーンは、「義政は戦乱の世に生きていたが、玄関先も…戦闘が行われていた時でさえそれを見て見ぬ振りをした。しかしそれでもなお、義政が育んだ文化は義政自身の人生を豊かにしたのだった。…一方に味方することを拒否したことに一人の衰弱した暴君を見るのではない。むしろそこに見ていいのは、自分を取り巻く終わりのない紛争に解決を見つけることを断念した一人の教養人の姿である」と。
義政は政治家としては失格だが現実の人間社会の阿鼻叫喚を逃避してしまったのはわかる。それでどれだけの命がうしなわれたことか。しかしその自己中心はまた、応仁の乱の戦火を逃れた文化人や芸術家はそれぞれ地方へと避難したことで、都の一流の文化が全国へと波及していったことも結果的に日本の文化が庶民の日常へ浸透していったことも奇跡的でもあった。