ここ1年、古典落語に酔いしれ、五代目圓楽の江戸落語を皮切りに、最近では柳家小三治にはまっている。車の運転をしながら何度もCDを聞くが、何回聞いても同じところで笑ってしまう。
小三治(1939-2021)の魅力は、聴く側・見る側をとらえて離さない「語り」の力である。とてもほかの落語家は及ばないほどの奥行の深さが聞けば聞くほど伝わってくる。語っていないときの所作に聴衆の笑いが何度も聞こえてくるので、DVDを見ないわけにはいかなくなった。
DVDの入手はなかなか困難だったが、なんとかそれを確保して見てみると、ますますその表情といい、所作といい、落語芸術の多面性を垣間見ることとなった。
立川談志の弟子も多いようだが、彼の言葉の軽さ・速さ・味、それに人間性というのが残念ながら聞く側に寄り添ってこない。
また、落語界の天才と言われた古今亭志ん朝もたしかに心を揺るがすトーンや余韻が快適だ。しかし、小三治の噺は「落語って面白くて楽しいんだけどね、哀しいんですよ。それを、ああやって、楽しく、力強く、くだらなく、生きていくっていう、その凄さ」を感じさせるものがあった。
そこで小三治が連載したエッセイをまとめた『落語家論』(ちくま文庫、2007.12)を読んでみる。それは、「彦六」こと林家正蔵が毎月連載していた小さな団体の「月報」のエッセイを引き継いだものだった。それは9年ほど書いたものを小沢昭一の勧めでまとめたものだという。
その中で、志ん生が「落語はもともと面白くできてるんだから、素直にそのままやればいいのだ。それを無理に笑わせようとしたり、わざと面白くやろうとするからつまらなくなっちゃう」という教えを、小三治は座右の銘にしていたという。
本書には、師匠の姿から学んだこと、修業のあらまし、楽屋でのドラマ、各界からの人との出会い、旅・料理・酒・年齢・言葉・趣味、若手落語家への提唱等々、苦しみながらも自由に文字を織り込んでいる。
いっぽう、小三治に惚れ込んだ落語評論家の広瀬和生(カズオ)の『小三治の落語』(講談社学術文庫、2022.4)がじつにシャープで温かい切り口だった。
本書の半分以上は、小三治の90席以上にわたる演目の分析があり、本人へのインタビューへの肉薄が読みごたえある。
そこには、多芸・多趣味の小三治の引き出しの多さと人間や世界・人生を達観した小三治の孤高な哲学が滑らかにしみだしてくる。六十歳代以降の小三治の口癖は、「落語は客を笑わせるものではない」という。
それは、落語の本題に入る前のおしゃべりの魅力が高じて、「マクラの小三治」と言われるトークが冴えてきた頃だ。落語よりそれを目当てに聴きに来るほどのお客もいて、それだけのCDや本さえ発売されているほどだ。
たしかに、「ニューヨークひとりある記」「めりけん留学奮戦記」「玉子かけ御飯」「駐車場物語」「ドリアン騒動」などのマクラは、何回聞いても笑いを引き出されてしまう。
テレビジャックに成功したのが「吉本興業」だ。どこのテレビチャンネルを回してもその痕跡を消すことはできない。それは視聴率や当世の流れにひざまずくマスコミの原罪とも言える悲しいポピュリズムだ。
そんななかでも、マスコミに媚びない、まわりに媚びない、自分の孤塁を死守した柳家小三治の頑固とナイーブさは、今の津波のようなお笑いブームでさえ超えられていない。
「なんとか笑わせようとクスグリ入れたりね、あんなことしてちゃ、ダメなんじゃない? 自然に面白くって思わず笑ってしまう、っていうのが落語なのに」と、自省をこめて語った小三治は、5年前の2021年に亡くなった。残念。
この人間国宝に次ぐ芸術家は現れるのだろうか、と思ってしまう。現在Eテレで放映されている「日本の話芸」に出演している落語家の噺は、残念ながら物語のあらましを平板に追うだけで、迫真の芸になっていない。ぜひ、入手が難しい秘蔵の小三治の録画を公開してほしいものだ。
(俳句は「落語研究会・柳家小三治全集」から、小三治の俳号は土茶・ドサ)





























