みっちゃん邸から収穫してきた梅が和宮様の梅仕事で、「梅シロップ」となった。そのおかげで、500mlボトルが5本分くらい出来上がった。そのため、連日の酷暑に抗して氷を入れ「梅ジュース」のお替りを体に流し込む。

 

 「桃栗3年、柿8年。梅はす(酸)いすい13年」という言葉があるが、梅の実がまともにできるのに13年もかかるという。わが畑に15年前に植えた梅は、残念ながらシカの食害で枯れ木となりつつあり、いまだ梅の実を口に入れられない。

 シカは梅や桃、さらに桜は大好物で、若い枝は折って食べてしまう。

 

 

 また、朝食のパンにはお手製の「梅ジャム」をたっぷりつけて、これも口中に広げる。最近は、梅干しではなくてこの梅ジュースと梅ジャムが酷暑に備えるエースとなっている。

 もちろん、朝の「野菜ジュース」には、和宮様渾身の「梅肉エキス」もブレンドされている。そのおかげか、うだうだしながらもエアコンなしの夏を乗り切れそうな日々となっている。

 

 

  わが菜園の夏野菜のエースは、なんといってもキュウリだ。

 暑いさなか、冷やした生のキュウリに麹味噌をつけてぼりぼり食べたら、腹いっぱい主食になりそうな勢いとなってしまった。

 今年は成長が良くて、二日に1回の割合で収穫しないとこん棒のようなキュウリができてしまう。

 もっぱらは、塩麹に漬け込んだキュウリを毎日のように食べている。近隣にもおすそ分けするのがけっこう忙しい。大地の恵みに感謝。

 

 

 今年はカボチャが豊作だった。画像の小振りのカボチャは、シカが防獣柵のネットを突破して、カボチャの葉を全部食べてしまったので、あわてて収穫したのだった。

 2週間後にそのいくつかを食べたが、なんとか食べられてホッとする。近所にカボチャ大好き家族がいるのでそこへまずはいくつか納品する。

 いっぱい調理しておくと、常備食として安心なカボチャとなった。

 

 現在収穫中の野菜は、オクラ・甘長唐辛子・シシトウ・ピーマン・ナス・小松菜・ツル紫・ミニトマト・ゴーヤ・ネギ・ブルーベリーなどだが、防獣柵の補修や草刈りのほうが忙しい。そのぶん、和宮様の負担に頼った暮らしになってしまった。

 

 野菜をいっぱい食べられるという大地の恵みを満喫できているのがありがたい。

 世界は戦争に殺戮に貧困に飢餓に直面していることを忘れないようにしているが。

 

 主催者である「熊森協会静岡支部」及び地元の「sozo学校」のよびかけで、山里の路地裏で「ごみ拾い&路上観察」が行われた。途中参加の人も合わせておとな・子ども十数人が参加した。路地裏探検と言っても、山里のことなので山林が近くにある。

 その山林にいつも大量のごみが捨てられているという。

 

    

 ひどいのは工事用で使った廃棄物をそのまま捨ててあるというのはひど過ぎる。また、その近くではバーべキューの炭の跡もあったせいか、飲み物の空き缶や空き瓶も少なくなかった。

 それらを文句も言わず慣れた要領で拾っているこどもやおとなの姿が凛々しい。

 

 

 ゴミ拾いコースもおおまかに定点で決めてあり、ごみを捨てる場所は特定できている。人があまり来ないような林縁に投げ込まれることが多いようだ。

 

 参加者の中には熊が人間界に来ないようにドングリなどの広葉樹を山奥で植える活動をしている方もいた。

 「熊は危険だなー」だけの対応で、何もしないまま済ましているのがフツー。その対策を行動で示している稀有な人間が目の前にいたことに頭が下がる。

 

 

 酷暑が続いていたので、当日は熱中症の心配をしていたが、なんとかしのぎやすい天候だったのが幸いした。それでも、Tシャツを汗でびっしょり濡らしながらも軽快にゴミ拾いするおじさんの姿は、子どもたちと対等の「宝拾い」をする崇高な修行者のようだった。

 

 

 ゴミ拾いとともに路上のマンホールにも足を止める。中央のマークのロゴは昔よく見た電電公社のデザインだった。

 マンホールの「T字」だらけのシンプルなデザインは、TELEPHONEとTELEGRAMの頭文字を組み合わせたものだ。このデザインは、昭和31年には日本中で使われるようなったという。

 

 蓋の内部はもちろん電話ケーブルや光ファイバーが保守されている。おじさんたちは旧電電公社のマークが懐かしいという。今はNTTとなり柔らかいロゴとなった。

 

 

 太陽を表すような「雨水」マンホールも発見した。雨水を集める穴が16か所もあった。しかし最近の異常な豪雨ではとても処理できない世の中となった。

 中央のマークは街を表し、水の循環の起点を象徴しているという。また、そこから放射状に広がるデザインは、水が街や人間を潤し、その恵みを讃えるものだという。

 

 このデザインは総じて、雨から地面へ、そして川から空へと、水と命が交差する世界を表現している。自然と都市との共生・循環を表す交響曲を演奏している。そんな躍動感が見て取れる。

 

    

 さらに、「空気弁」と刻まれたブルーのカラフルなマンホールに出会った。すぐに、水道関係のものとわかる樹脂塗装をしている。

 「空気弁」とは、地下の水道管に溜まった空気を排出したり、逆に外気を取り入れたりする調整装置。これをやらないととマンホールが吹き飛んだりする事故が起きるという。

 中央付近には浜松市の旧市章があり、そのまわりには、六角形と雨粒模様の凸凹模様があり、滑り止めを考慮しているのがわかる。

 

 

 そして、やや摩滅しかけた「流量計室」と刻まれたマンホールにも出会った。それは言葉通り、水の量を計測する地下の部屋だ。

 六角形のデザインが多数散在しているが、それと流量計との関係はわからない。このデザインは「ハニカム構造」といって蜂の巣の小部屋に見られ、建築の分野でも堅牢な構造物として採用されている。


 ここでは、重い車両が乗ってくることを見越して、どの方向からも圧力を均等にして負荷を分散するという、つまり滑り止め効果を狙っている。

 中央のロゴは不鮮明だが、2005年の市町村合併で制定された浜松市章。

 

 

 もちろん、植物や建物や生き物の観察もした。とりわけ子どもが拾った野鳥の羽は、猛禽類の「サシバ」の羽だった。山歩きの好きな猛者で野鳥に詳しいおじさんが、「これはなかなか手に入らない珍しい野鳥の羽だよ」と、嬉しそうに子どもたちを鼓舞したのだった。

 

 こうして、子どもを真ん中にした山里のごみ拾いと路上観察が終了した。昼食は、参加者でもある旧松本屋旅館のオーナーの好意で、旅館の大正・昭和のレトロ内装を楽しみながら、ゆるりと交流したのだった。   

 

 

 

    

    「ミスター円」と言われ、国際的に活躍してきた元大蔵官僚の「榊原英資」が書いた『辺境から中心へ / 日本化する世界』(東洋経済新報社、2011.4)に注目。かつてテレビによく出演していた頼もしい氏でもあったが、その歯切れの良さにいつも感心していた。本書はそれをさらに追認する読後感でもあった。

 

   

 ドイツの歴史家が「西洋の没落」を発表したのが1918年。第1次世界大戦後の欧州の荒廃がその背景にあったという。その後、世界大恐慌・第2次世界大戦となり、欧州が主要な戦場となる。

 その結果、欧州は世界の政治・経済からの脱落を続け、代りにアメリカが覇権を握っていく。

 

 

 それでも、西洋はEUの経済圏を発足させ加盟国を増やして改善してきたものの、ウクライナ戦争にはもたもたし、その結束の弱さ、対応の遅れが目立つ。

 いっぽう、トランプ大統領の登場で世界の憲兵・アメリカの信頼もますます下落となり、欧米の凋落傾向はすでにじわじわと下降線をたどってきているのは否めない。

 

 

 「時代は、緩やかに、しかし着実に、欧米から、中国とインドを中心とするアジアへ移ってきている」と、榊原氏はすでに15年前から見抜いていた。その根拠を経済専門家らしく統計などを駆使しつつそれを展開していく。

 

 そのなかで、現在の日本は「環境・安全・健康」の成熟度が先進的で、「世界の最先端を走っている」という。それは豊かな自然に恵まれ、日本文化の伝統に裏付けられてきたバックグランドがあったからだと楽天的な見解を発信する。

 

 

 民族・生態学者の梅棹忠夫氏は、日本はその地理的条件から他国からの「攻撃と破壊をまぬがれた温室みたいなところ」で、「ぬくぬくと」育ち脱皮して、今日にいたったと指摘して久しい。

 

 それを踏まえて、日本は「長い平和の時期を享受できたということは、多くの物的・知的資源を教育や文化の育成に振り向けることができた」と榊原氏は前向きだ。そして、欧米・大陸の歴史は力と欲望による戦争と殺戮を繰り返してきた過去だと批判する。

 

 

 もちろん、日本の負の歴史はないわけではないが、とくに、明治から第二次世界大戦までの歴史は「異常な時代」だったと榊原氏は断言する。確かに、そこは授業ではタブーのようなもので、うわべだけでお茶を濁して現在を迎えてしまった。だから何かがおかしい。そこに気が付かないまま思考停止のまま多くの人が死んでいき、それは今も進行中というのが現実なのではないか。

 

 そこを見抜いた人間は共同体から排除され、孤立していく。それに耐えられない人間は、「同調圧力」に加担して多数派であることで安定を得る。つまり、ポピュリズムに埋まっていくわけだ。榊原氏はエリートなのでそういう分析はしないようだが。

 

 

 かつて世界の中心は中国だった。西洋の貴族も中国の文化や中東のオリエントにあこがれをもった。だから、「中華」帝国はまんざら中国の傲慢さを表す語彙でもない。しかし、遅れて文明を成した西洋は植民地獲得の大航海時代を経て、世界の中心を握っていく。

 

 いっぽう、日本は外国である中国からしっかり学んできた歴史がある。儒教的な道徳律は本家より日本に定着したのではないかというくらい、礼儀正しく、相手を敬うモラルも高い。

 

 

 近代西欧文明は、「自然との対決・征服」と考えた原理だったが、「人間は自然の一部」だとして災害列島を耐え、自然を畏敬してきたのが日本だった。21世紀は「自然との共生の世紀」だ言われるが、現在の世界は日本化する過程にあると氏は強調してやまない。

 

 そうして榊原氏は、日本は辺境にいたからこそ、豊かで奥深い文明を育てあげていき、これからの世界は、日本が培ってきた多様な価値・宗教・哲学・文化を持った日本モデルが求められると、胸を叩いて元気のない日本人に檄を飛ばす。こうした粋のいい人物がどんどん言論界に出てきてほしいものだ。

 

 

 路地裏探検で歩いていたら、茎も葉も黄色い竹を発見。日本庭園などでよく見る上品な竹だ。真竹の園芸品種の「黄金竹」という。縁起が良い茎に金と緑が交互に出る模様があるのは「金明竹」で、古典落語にも出てくる。

 

 

 その近くで、刺のある葉が目に留まった。赤い実がいっぱいできる「クリスマスホーリー」(西洋ヒイラギ)だ。それで、以前この実を植えてみたが芽は出なかったので、がっかりした記憶がある。ヒイラギより刺が少ないのがいい。

 

 

 路地裏でよく目にしたのは、「ヒメツルソバ」だった。わが実家の玄関前のコンクリートにいつのまにかびっしり生えてきたのがこれだった。小さなピンクの花もいっせいに咲きだすので、グランドカバーにはもってこいのたくましい植物だ。

 

 名前の由来は、葉の形や花が「そば」に似ていて、地面を這うように茎を伸ばすので「つる」、小型で愛らしいので「ひめ」がつき、合体して「ひめつるそば」となった。

 

 

 道路際の石垣にはイワヒバのような「カタヒバ」がところどころ出ていた。イワヒバを観賞用として栽培している人も多いが、ちょっとみではその違いがよくわからない。イワヒバのほうがヒノキの葉のような放射状の葉が出ている。

 

 

 その石垣のカタヒバと争うように葉を伸ばしていたのが「イノモトソウ」だった。これもよく見るシダの仲間。井戸のまわりでよく見られたので、「井の許(モト)」とつけられた。

 民間療法の薬草として、止血・解毒・解熱などの薬効があり全草が利用されてきた。

 

 

 空き地に紫の花が目立つ「バーベナ」の花に出会った。これに似た花も多いのでいつも戸惑ってしまう。

 

 

 家々の庭の近くで目にしたのが、「メランポジウム」(キク科)だった。中央アメリカ原産らしく、乾燥に強いようだ。名前はラテン語で、根っこが黒いという意味らしい。英語名では金メダルのような花と言われる。一年草だが、暑い夏でも長く咲き続けるのが魅力のようだ。

 

 

 象の置物の上に玉のような葉を伸ばしていたのが、「グリーンネックレス」(キク科)という多肉植物だった。このネックレスは画像のように象をも捕らえる魅惑的な植物のようだ。アフリカ原産だけに乾燥には強いが、過湿に弱いという。和名は「緑の鈴」。

 

 

 以前、箱根で見たことのある「ペラペラヨメナ」(別名エリゲロン )が路傍にあった。花が白からピンクに変わる小花が魅力。葉が薄くぺらぺらで、ヨメナの花に似ているのでついた名前で覚えやすい。

 中米原産の多年草で増えすぎると在来種に影響が出るので、外来の「侵入植物」として警戒されている。

 

   山里に残された小さな路地裏には、路傍に家の庭に慎ましくもたくましく生きる植物があった。山里としては外来種が目立つのが残念だが、在来種と住み分けながら生きているのがまた日本的らしい。

 そこには、地域・環境の変遷や人の思いなどが反映されているように思われた。

 

 

 

  

 木材の需要とそれを筏で運搬した川岸の要衝地に人が集まってきた。かつての林業家の羽振りの良さもあり、また、火の神・秋葉山の信仰をする旅客が小さな里山の一角に集い、ささやかな賑わいが始まった。文明開化がこの山里に時代の幕開けを告げたときだった。

 

 火事や水害や土砂崩れに悩まされたこの地域に立派な橋が建立され、その橋の灯りは二灯式のヨーロピアン・アンティーク調の街路灯2対が設置された。石橋は大正15年(昭和元年)に完成したもの。この鬱蒼とした辺境の地に燦然と輝く灯りは村民の度肝を抜く文化の洗礼だったに違いない。

 

 

 実際、その街並みの中心地に建設された「松本屋旅館」は、「県庁指定旅館」となり、味にこだわった日本料理の本格的な割烹旅館だった。町を代表する一番大きな高級旅館だった。

 

 さらに、近くで生まれた「白井鐵造」が、宝塚レビューの王様と言われるほどの演出家であったことから、歌劇団員との交流が生まれ、ここに泊まればトップスターになれるという神話も生まれていく。

 

 現在は個人所有となり、その好意により地域のイベントなどにも活用されている。内部意匠も大正・昭和モダンが見受けられ、地域の文化遺産として公的にもしっかり応援してもらいたいものだ。

 

 

 橋の対岸には立派な土蔵も見られた。前々から漆喰の壁にL字型の釘(折れ釘)が出て

いるのが気になっていた。

 どうもそれは、蔵を補修するとき、壁を傷つけないようはしごや足場をセットするときのものだそうだ。2階開口部の防火扉や外壁の腰板張りなど、土蔵建築の代表的な仕様が見られ、これもさりげない貴重な土蔵だ。

 

 

 

 松本旅館の向かい側には、ムラのスーパーでもあった旧「伊沢屋」や呉服の旧「仲屋」が往年の繁栄を残した姿を残している。

 ここでとても素晴らしいと思うのは、この山里の旧商店街の有志が毎月マルシェを開催していることだ。その中心メンバーは学校時代の同級生なので、「同級生マルシェ」とチラシに明記している。野菜とフリマを中心に笑顔と会話を地域に届けている。

 

 まち育ての一環として町内で、いろいろチャレンジがされてきたが、このマルシェの持続力は地域のつながりの深さを伝えてくれる。行政をあてにしない、儲けをあてにしない、往年の賑わいを夢見る、そんな心意気がまちを元気にしてくれる。

 

 この狭い商店街には、競馬場・芝居小屋・映画館・百貨店・銀行などが出現するほどだったが、今では空き地と空き家が目立っている。その意味でも、マルシェを立ち上げた意味は希望そのものだ。

 

 

 路地をまわってみて、個人のレトロな格子戸もわずかに発見できた。縦の桟が見事な「堅繁格子(タテシゲ)」とか「千本格子」とかいう格子戸だ。木材が豊富にあった地域ならではのたたずまいだ。

 かつて、近くにできた王子製紙の気田工場は、周りの森のモミ・ツガを伐採つくして工場は北海道に移転したが、地域に残した痕跡はきわめて大きい。

 

 

 そのうちに、銅製の亀甲模様の戸袋を発見。これも当時としては燦然としたおしゃれが活気を誘ったに違いない。現在はシンプルで効率的な戸袋が一般的だが、むかしの戸袋のほうがデザインがユニークだね。

 

 そうそう、橋のたもとには、「長命地蔵尊」の石仏が鎮座していた。「町内安全」と刻まれた石盤の上には、錫杖を持った「立位」の石地蔵が、その前には「坐位」の新しい地蔵が安置されていた。

 

 そこには何回も災害にあった地元の願いが込められているのがわかる。地蔵尊そのものは素朴なものだが、その周りには10本近くの赤い幡が羽ばたいていた。地元のひたむきな信仰と願いがそよと伝わってくる。