おはようございます、たけちです。

2024年・令和6年9月14日土曜日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?

9月3連休第1弾初日ですねニヤニヤ

たけちは、明日、明後日、ココロのデトックス第2弾として温泉でまったりするつもりです。

まだ、残暑厳しいですが・・・チーン

 

さて、今日は

たけちの伊豆キャン!第4話です。



伊豆の城址・史跡めぐりをしつつ、キャンプ場を目指すたけち

いよいよ世界遺産「韮山反射炉」に到着します。

 

 

思ったよりも新しくてビックリびっくり

そして、観光客も多いぞ驚き

 

 

まず、反射炉とは、なんぞや?

伊豆の国市のHPやパンフレットから引用すると

反射炉とは、銑鉄(せんてつ・砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉らしいです。

銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となりますが、反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに炎や熱を「反射」させ、銑鉄に集中させることで高温を実現する構造となっています。このように、反射させる仕組みから反射炉と呼ばれました。


うーん、わかったような、やっぱわからないような・・・


ちなみに築地や萩にも反射炉は建設されるのですが、実際に稼働した反射炉が残っているのは日本でここだけびっくり


それはすごい、かも爆  笑

 

 

なぜ、この反射炉はこのような形になっているかというと・・・

ヒュゲニン(huguenin)著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書(やはり幕末近くもオランダ)に基づいて、連双式(溶解炉を二つ備える)のものを2基、直角に配置した形とのこと。


なんかすごい技術じゃないのかびっくりびっくり
 

 

では、なぜ、この反射炉を建設に至ったのか?

これも伊豆の国市のHPとパンフレットから引用すると・・・

時は嘉永6年(1853)のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらさていました。

江戸湾海防の実務責任者となった江川英龍に対して、幕府は江戸内湾への台場築造(品川台場)と並行して、反射炉の建造を命じます。ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた英龍でしたが、蘭書の記述のみを頼りに反射炉を建造するのは、非常に困難な事業でした。

 

最初は建設予定地を下田港に近い賀茂郡本郷村(現下田市高馬)として、その年の12月には基礎工事を始めましたが、翌安政元年(1854)3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が反射炉建設地内に進入するという事件が起こります驚き

そこで、急きょ、反射炉建設地を韮山代官所に近い田方郡中村(現伊豆の国市中)に移転することになります。

 

安政2年(1855)正月、江川英龍は韮山反射炉の竣工を見ることなく病死チーン

跡を継いだ息子の英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請しました。佐賀藩士の助力を得て、安政4年(1857)11月、韮山反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成したのでした。

韮山反射炉では、元治元年(1864)に幕府直営反射炉としての役割を終えるまでの7年間に鉄製18ポンドカノン砲や青銅製野戦砲などの西洋式大砲が鋳造されたそうです。

 

 

そして、現在、世界文化遺産 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のエリア3「韮山」として登録されています。

少し小高いところから「富士山」と「韮山反射炉」という二つの「世界遺産」をパシャリ

二つの異なる世界遺産が同時にみれるのはここだけじゃないかびっくり

しかし、富士山、雲かかってんなぁショボーン

致し方なしえー

 

反射炉を満喫し、つぎの目的地へむかいます。

(つづく)