おはようございます、たけちです。
令和6年・2024年2月3日土曜日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?
たけちは少し身体を動かした後、写真の整理や資格試験の勉強とか、読書とかをしようかなと思っています
さて、今日は群馬県の続100名城のひとつ岩櫃城について紹介します。
【岩櫃山周辺ガイドマップ】
岩櫃城は山城
築城時期不明
築城主不明
わからないところにロマンがあるのですよ
【草ボーボーの中城跡】
鎌倉時代から南北朝時代になんとなく存在したと言われている岩櫃城
戦国時代当初岩櫃城はこの地方を支配していた斉藤氏でした。
斉藤氏は越後上杉氏に所属し、領地を支配していましたが、領地内で諍いが起こり、その仲介に入ってきたのが
戦国時代最も有名な一族真田氏
【竪堀と土塁】
真田氏の台頭に危機感を抱いた斉藤氏
先手を打って真田側の勢力の駆逐を試みますが、程なく真田氏の攻勢を受けて1565年斉藤氏が真田氏に駆逐されます。
時の真田の棟梁は真田幸隆
信繁(幸村)の祖父にあたります
【逆光の二の丸跡】
真田氏は岩櫃城を上野国北部進出するため、沼田城、名胡桃城と信濃国の拠点上田城(まだないんですが💦)の中継拠点として大改修を施します。
1582年真田昌幸は織田信長の甲州征伐により危機に陥った主君武田勝頼を助けるため、岩櫃城へ迎え入れる計画を立てますが、勝頼は、小山田氏を頼り、岩殿城へ
そして、裏切られ天目山にて滅びることになります
【竪堀】
その後、岩櫃城は昌幸の長男真田信幸(之)が入ります。
そして1600年関ヶ原後、当主となった信之は
1614年に岩櫃城を破却します。
これは、徳川幕府を憚ったためだと言われています。
弟の信繁は真田丸で大坂方として活躍していたからかもしれませんね
名城スタンプと御城印は岩櫃山平沢登山口観光案内所(現在臨時休業中3月31日までの間はスタンプは東吾妻町観光協会)でいただけます。
もし、勝頼が真田昌幸を頼り、岩櫃城へ逃げていたら武田は果たして滅びなかったでしょうか?それとも、武田と一緒に真田も滅びていたかもしれません。
また、信長も岩櫃城攻めのため時間がかかり、
本能寺の変自体起きていなかったかもしれません
こう考えるだけでも、歴史って、面白いですね