おはようございます、たけちです。

令和5年11月3連休の真ん中日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?

昨日は季節外れの暑さでしたね滝汗

まぁ、それでも、毎日が熱中症アラートの日々に比べるとまだいいですかね真顔

今日は、久しぶりランニングでもしようかなと思っています。

 

さて、今日は、つくばりんりんロードに隣接してあった小田城について紹介します。

 『つくばりんりんロード③ お城址の脇のサイクリングロード』おはようございます、たけちです。令和5年10月最後の日曜日、みなさん、いかがお過ごしになりますか? たけちは、現在、栃木のとあるキャンプ場でまたーりしてい…リンクameblo.jp


【土塁と堀、愛を感じますなぁラブ

 

小田城は平城、築城時期は鎌倉時代初期、築城主は小田氏の祖八田知家

 

【鎌倉殿の13人でも活躍の市原知家】


八田氏(小田氏)は当初、常陸守護職にありましたが、(前)北条氏により領土を縮小させられ、1315年までに守護職を失っていますゲロー

 



【北虎口跡】

 

勢力回復を目指す小田氏は1333年の鎌倉幕府滅亡時に後醍醐天皇の建武政府に参加し、南北朝時代は南朝方として、小田城は関東地方の一大拠点となります。

 

なお、北畠親房が南朝の正当性をあらわした「神皇正統記」はこの小田城で執筆されたとかニヤニヤ

 

【小田氏と小田城跡の説明、字小さい💦】

 

1341年小田氏は北朝方に降伏

その後、一時勢力を盛り返すも、鎌倉府に反抗した小山若犬丸を匿ったために討伐をうけゲロー

室町幕府に目をつけられてしまい、忍従の日々を送りますチーン

 

【本丸跡】

 

戦国時代、14代小田政治は一時は勢力を拡大させるも、15代小田氏治の代になると佐竹氏、(後)北条氏、上杉氏の間を目まぐるしく同盟、反旗を繰り返します。


そしてその都度

小田城落城→土浦城へ退避→機会をみて小田城奪還

ということを続けます煽り

 

しかし、その日々も1569年手這坂の戦いで氏治は佐竹・真壁連合軍に敗れ、二度と小田城を奪還することは叶いませんでしたショボーン

 

その後、小田城は佐竹氏の一族の居城となりますが、関ヶ原後、1602年佐竹氏が秋田移封に伴い小田城は廃城となります真顔

 


御城印は小田城跡歴史ひろば案内所でいただけます。

 

小田城の歴史は中小大名であった小田氏の悲哀の歴史でもあります真顔

 

なお、小田氏として最後の城主となった氏治は、勢力回復のため頼った結城氏が1601年国替に伴い

越前ポーンへ移動、その地で天寿を全うしました。

 

戦国最弱の大名、とか、弱いほうの「おだ」とか言われる小田氏

 

しかし、最後の当主小田氏治本人はどう思っているかはわかりませんが、たけち的には少なくても無念な死ではなく、全力で生を全うした人生で満足のいった死であったと思いたいなぁニヤニヤ

氏治の遺骨は一旦越前の名刹永平寺に葬られますが、のちに常陸の新善光寺に改葬されます。

 

おかえりなさい真顔