おはようございます、たけちです。
令和5年7月8日土曜日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?
たけちは朝涼しいうちに走って、昼はクーラーの部屋で知的財産管理技能試験の最後の追い込みをします
そして、夕方、ホンダに行って新車購入のための手続きしてきます。
久々の大きな買い物、超キンチョーしますね
さて、今日は100名城のひとつ川越城を紹介します
【川越城中ノ門堀跡】
川越城は平山城、築城時期は1457年扇谷(おうぎがやつ、読めね〜💦)上杉持朝の命により太田道真が築城したとか、いや実はその子太田道灌が築城したとか・・・・・
はい、いつもの諸説ありというやつです
【北門跡及び土塁】
築城後は扇谷上杉氏の居城となります。
この時の名前は河越城
そう、戦国3大奇襲のひとつ河越の戦いの舞台なんですね。
【川越城本丸御殿】
河越の戦いは1545年から46年にかけて行われた小田原北条氏と山内・扇谷両上杉氏による河越城を巡る攻防戦です。
始まりは1537年北条氏綱が扇谷上杉氏の居城河越城を落城させ、北武蔵攻略への前進基地とします。これに対し、1545年関東管領(山内)上杉憲政及び(扇谷)上杉朝定が古河公方足利晴氏を抱き込んで反北条勢力をまとめ上げますその数約8万!!!
【本丸御殿内】
これに対する河越城の北条綱成は3000
しかも英主氏綱が病死し、その跡を継いだばかりの3代目氏康
関東反北条に迎合して西から今川、武田もちょっかいをかけてくる始末
危うし北条氏康
【雪隠、結構見かけるんですわ】
しかし、氏康の行動は迅速でした。
まず、今川と係争地だった河東地方を放棄することで、今川、武田からのちょっかいを封じます。(係争地だった理由は「興国寺城」を参照してね)
そして、8000の兵を率いて河越城の救援に向かいます。
8万VS1万1000!
これはハンニバルでもあかんわ
しかし、氏康は反北条連合軍を急襲して壊滅させます。
どんだけ烏合の衆やねん、おのれら
【川越城縄張図】
以後、北条氏による北武蔵攻略が急速に進み、河越城は戦略上の重要拠点となりますが、1590年秀吉の関東征伐際無血開城します
江戸時代に入ると江戸城の出城という役割により重視され、幕府の重臣(例:松平信綱、柳沢吉保等)が城主となり、川越藩は幕府の要職についた歴代藩主が7人!と最多の藩でした。そして、川越城は老中の城となります(後期は親藩)
やはり、江戸城に近いという立地が良かったのでしょうね
スタンプについては川越城本丸御殿で頂けます。
1868年当時藩主であった松井松平家が新政府に恭順するため堀を埋め、1873年廃城令により川越城は廃城となります
【川越市役所の太田道灌像】
川越城を取り巻く歴史上の人物は数知れずですが、(諸説あるものの)やはりずば抜けた戦術眼で川越城を築城した太田道灌は当時としては桁はずれの人物だったのでしょう。
しかし、真に恐るべきはその道灌の遺産をそのまま活かした家康なのかもしれません。
そう、あの江戸城とか、ね